2010年3月28日日曜日

主語を変えるとWIN-WINになるってどう違うの?



感情的になりがちな人は、隠れ主語に『相手』を使うのでコミュニケーション・トラブルが生じます。良いコミュニケーションにするには、主語を自分にすることです。主語を自分にすると率直、誠実、対等、自己責任が実行できます。

 主語を相手から自分に変えるとどうなるか、別の事例で見てみましょう。

店長「課長に何とかして欲しいとお願いしてあった求人の問題。どうなりましたか?また退職者が出るので手が足りなくてシフトが組めませんよ。課長から手配するように総務に話していただけましたか?」

課長「ああ、あの求人の問題ね。総務も頑張ってくれているが、まだ応募が少ないようだ。」

店長「いや、応募というより求人告知の問題じゃないんですか。それに条件の見直しも必要なんじゃないんですか」

課長「それもあるだろうが、でも離職率も高すぎるっていうじゃないか。ウチみたいなところは離職を少なくしないと困るんだ。来てくれた人は大事に育てていかないとな。いまいるスタッフを大事にしないと。」

店長「いればいいってもんじゃないんですよ。ミスする連中ばかりで、こっちがバタバタするばかりなんですよ。現場のことは実感できないと思いますが、教育するのも大変なんですよ」

課長「スタッフ育成はキミの仕事だろー・そんなことはいつものことだよ。マネジメントするのが当たり前じゃないか。文句を言わずにちゃんとやれよ」

店長「いつもそうなんだから、結局、そういってまともにとりあってくれないじゃないですか」

ついにはケンカ腰になって課長を怒らせてしまいます。
この会話の、どこにどんな問題が潜んでいるのでしょうか。

ここでは店長の言葉の隠れた主語に「相手(課長)」が多く使われています。
「'手配するように総務に話していただけましたか?」
「現場のことは(課長には)実感できないと思いますが、」
「結局、(課長は)そういってまともにとりあってくれないじゃないですか」という具合です。隠れ主語で攻撃していることが明白です。

自分を主語に変えてみると
「課長の考えを聞かせていただけると(自分は)嬉しいのですが」
「現場のことを(自分は)理解してほしいのです」
「(自分には)いつもまともにとりあってくれていないように思えますしとなります。

先のものは、店長から攻撃されている印象の強い言葉ですが、隠れ主語を自分(店長自身)に変更すると、押しつけられている印象は消えて、一つの意見に様変わりします。同じ内容のことですが、このような会話に変えると相手も受け取りやすくなり、自分も話しやすくなります。

会話の目的が相手を攻撃することにあるのか、求めている結果を実現するのか、予め意識することがとても重要だということが分かります。相手を傷つけても何のメリットもありません。ウィンウィンを実現する立場に立つと会話の方向性も明確になります。主語の大切さが意識できるようになり、主語を自分にすると、自分の気持ちや意見もはっきりと言いやすくなります。

日頃から隠れ主語に「相手」を使っていないかのチェックもぜひやってみてください。主語を自分に置き換えるトレーニングをして、自分の会話パターンをより良いものに変更するようにします。

自分を主語にするとは?


主語の使い方でコミュニケーションは全然変わります。

特に言いたいことが言えない人にとって、
主語の使い方を変えると劇的に変わります。

▼そこで、こんなコミュニケーションをしていないか、確認してください。

待ち合わせをした友人が遅れてやってきました。

友人「ごめんなさい、遅くなって」
わたし「遅刻をすることが多いよね」
友人「仕事が長引いて」
わたし「一時間も遅れたよ」

この会話には「主語」が隠れています。主語を(  )で出してみましょう。

▼隠れ主語を出すと

友人「ごめんなさい、遅くなって」
わたし「(あなたは)遅刻をすることが多いよね」
友人「仕事が長引いて」
わたし「(あなたは)一時間も遅れたよ」
友人「ごめん、ごめん」

どうでしょう?相手を責めていることが分かります。

隠れ主語を使う人に特徴的な傾向があります。
隠れ主語に、相手(あなた)を使う傾向が高いのです。
つまり相手の責任にふってしまいます。相手は気が重くなります。


▼次に主語を私に変えるとどうなるか見てみましょう。

友人「ごめんなさい、遅くなって」
わたし「遊びの約束でも(私は)時間は守って欲しいわ。」
友人「仕事が長引いて」
わたし「(私は)あなたとの時間を楽しみしている気持ちを台無しにしたくないのよ」
友人「ごめん、ごめん」

隠れ主語を自分にすると相手を攻撃することなく言いたいことが言えるようになり
ます。言わざるを得なくなります。

同じ「ごめん、ごめん」でも相手の気持ちの状態も違うことが分かっていただけ璃
とおもいます。

上の「ごめん、ごめん」は謝罪しているけれど、立場がなくムッとしています。
(私は)を隠れ主語にした下の場合では謝罪しているだけでなく相手も気持ちの切り
替えができます。WIN-WINの関係になれます。

では、次の事例を見てみましょう。

アルコール依存症者の子供たちには、こどもの時代がなかった?




人間には3つの心、「親の心」「大人の心」「子供の心」があります。
「親の心」には厳格な心と保護的な心、つまり父親的なもの、母親的なものがあります。「子供の心」にも従順な心と無邪気な心があります。これらの心は主に家庭で育まれていきます。

 健全な家族では5つの心が、一貫性のあるルールと仕組みのなかで育まれます。
一貫性のあるルールと仕組みがあるのは健全な家族の特長ですが、欠落している家族があります。アルコール依存症の人が存在する家族です。この種の家族に育てられた子供には、無邪気さの不足が目立ちます。

 彼女らは幼いときから、”子供”として過ごした時間が少ないので、無邪気な経験が失ってしまったのです。
同級生が学校から帰ったら遊びに行こうと誘います。しかし彼女にはもっと重要なことがあります。家に帰って点検して今夜の予定と気の持ち方を決めなければならないのです。

アルコールの瓶がどこにどんな状態で置いてあるのか、注目の人はしらふか、誰がいて、誰がいないのか、妹の世話をするのは誰か、夕飯の支度をするのは誰か。彼女は点検した上で、自分の行動と気持ちを決める必要があります。無邪気さを体験する代わりに親あるいは大人を体験します。自分に対して自ら厳格を要求し、対外的には嘘をつくことで自分を保護することを憶えます。

 彼女は混乱した部屋の扉を閉めて、こういいます。
  「万事順調、なにごとも起こっていない」

彼女は責任を全うしたことに安心します。いまなにが起こっているのか、すべてを把握することに忙しく、なにが起こっても上手に切り抜けるスキルを身に付けていきます。一緒に暮らす大人よりも、はるかに大人らしくふるまい、親よりも上右に保護します。

自分さえしっかりしていたら、アルコールの瓶は増えない。親は近づいても安心な存在でいてくれる。他者の責任まで自分の責任として受け止めて責任の領域は広範囲に及びます。

親が自分と本当のゲームをして遊んで、親が最後まで続けて親が勝ってくれるようなら最高に楽しい時間だ。もし、親が負ける、最後まで続けない時は、楽しくないだけでなく、すでに危険な渦に巻き込まれたことを意味する。

 こうして「こども」を体験しないまま成長した彼女は、成人しても、自分の責任範囲を超えて自分の責任だと考える習慣を手放しません。ほとんどの場合、手放す理由も、手放し方も分からないままだからです。
同僚が黙っていると自分の責任だと感じ、上司がしかめ面をしていると自分の責任だと感じ、赤ん坊が泣いていると自分の責任だと感じ、パートナーが会話を好まないと自分は見捨てられたと絶望します。

結婚する前に仲睦まじく交際した期間、それは彼女が少しばかりの無邪気が許された期間。パートナーがテレビに見入っている姿は自分をかまわずに酔いつぶれていた親とだぶります。絶望の足音を感じながらも、「たいしたことはない、私さえ黙っていたらきっとうまくいく」と自分の願望を抑えます。
泣きじゃくるこどもとふたりきりになったとき、冷やかな空気が部屋中に漂います。「私にはこどもであった記憶が一度もない」
いや、そう言える人はまだマシなのかも知れない。考えることもない人もいるのだから。
孤立感のなかでさらに自分にムチを打ちます。親として責任を果たさないと・・・・もっと頑張らないと・・・・この子が泣いているのは、私の責任だ。焦りと責任感に追いかけられる。まるで責任に指名手配されているように感じます。
 彼女がすることは、うまくいっているように見せることではなく、サポートを求めることです。助けてほしいとサインを分からないように出すのではなく、分かるように出すことです。

「万事順調、なにごとも起こっていない」ではなく、
「私は完璧じゃない、大丈夫じゃない、私には助けがいる」と伝えることです。
それが「自立」なのです。「なれる最高の自分になる」方法なのです。
 家庭ではもちろん、どんな職業をしていても、子供の心を持っていることは必要です。子供の心がないとさわやかなコミュニケーションができないので、相手に負担を与えてしまいます。
人は死ぬまで、「親の心」「大人の心」「子供の心」を持ち続けるものなのです。
いまからでも、無所気なことを、童心に返ることを、アサーティブに、積極的にするようにしましょう。

アルコール依存症者の子供たちが「サバイバー」と呼ばれる理由は?




アルコール依存症者の子供たちが「サバイバー」である理由

 見かけは同じでも、アルコール依存症者の子供たちが成人した意味は、そうでない子供たちが成人したこととは随分違います。彼らは幼い時から戸籍謄本によって兵役に召集されたようなものです。無事に「成人」に辿り着けたことは、アルコール依存症者の子供たちにとって生き残りに成功したことを意味する。しかも、そのほとんどは基本的に一人で生き延びていて、そのプロセスで、精神的に肉体的にも傷つけられ、見捨てられた孤立の記憶とともに不安と恐怖と痛みを体験しています。

 アルコール依存症の親を持つ子供たちは、弾丸の雨嵐から身をよけながら戦場を駆け抜ける子供のようです。しかもそのとんでもない体験を誰にも話すことないし、生活の情緒的な側面を切り離すと言う離れ業をやってのけています。

突き上げてくる感情を追いやるためには、否認、抑圧、遮断となんでもする。自分の感情を自分から遠ざけ孤立することで、感情は自分のものでないようにできることを学んで来た。情緒や感情は自分の味方にはなることのない敵なのだ。もし切り離さずにいたら、自分の感情に叩きのめされてしまう。

誰にも見つからずに生き抜くために、暮らしのあらゆる場所には、秘密が張り巡らされている。仮に誰かに話したとして誰も味方になってくれるとは思えなかった。むしろ危険が増えるだけだと直感的に判断した。

もし誰かに話すことで幸運にも状態が改善されるくらいなら、自分の周囲の大人の誰かが良くなるためのなにかを誰かがしたはずだと思えた。それがないのは状況を黙って受け入れるだけに思えた。しかも彼らは数回にわたって状況を伝えた記憶となにも変わらなかった記憶を持っている。そして何も話すなと言われた記憶も持っている。助けを受けることはできず、受容と忍耐を促されていた記憶がもっとも強く残っていて、それは彼らを深く傷つけ絶望感となって心身に浸透している。

秘密と併せて、彼らは情緒的な側面を切り離してきたので、約束、愛情、信頼、親密、保護などに対して経験が乏しく。どのように向き合っていいのか分からない。その一方で自信喪失、抑うつ症状をきたしている。実際の戦場から帰還した兵士が病に苦しんでいるのに似て、傷ついている。それは残念なことだが、いつまでもそこに立ち止まることはない。いまいる場所は、戦場ではなく、別のやり方が通用する場所で、そうすることがもっと楽にやっていける方法だ。立ち上がり、歩み始めることだ。

依存症の症状は、ピンからキリで、その他の依存症と同じく定義も誤解されています。アルコールを消費する量が多いからという理由でアルコール依存症とは決めつけられません。少量であってもアルコール依存症に陥った人はたくさんいます。また明らかな影響を受けていても、自分の親をアルコール依存症者と考えていない人もたくさんいます。その背景には「否認」が働いていることも影響しています。

しかし、アルコール依存症者の子供たちには、程度の違いはあっても共通した特徴があります。そしてその人たちには、魅力的な人が多く、優秀な人がたくさんいます。また彼らは長い戦場体験によって緊張が普通になってしまっている場合があります。平穏に耐えられず自ら緊張を作り出す人がいます。平穏をよしとする人には耐えられないストレスになります。

その人と能力に惹きつけられはしても、理解できない行動に面食らい悩むことも少なくありません。どうしていいのか分からない想いは、実はアルコール依存症者の子供たちが傷ついて苦しんでいる証しなのです。だから彼らを本当に愛しているというなら、一緒になって傷の回復をめざす勇気が必要なのです。生半可な同情は結果敵にさらに傷つけることにもなりかねません。

生き延びるために否認を使って来たこと、緊張を好む傾向がひとつになるので、回復の必要を感じることが難易度の高い問題になることも少なくありません。なにより自分を守ることが最優先であったために、欲しいものが欲しいと知られると、自分がコントロールされる危険を反射的に考えます。孤立の記憶といまとこの先の孤立を嫌い、それゆえ無意識に現在の孤立を選択しています。孤立していれば孤立はないからです。無力な子供が生き延びるために、幼児期からのもっとも重要な課題であったことを理解してあげてください、

しかし、すでに気がついていてどこかで自分のやり方を手放したいと考えている人もいます。急がずに、ゆっくり少しずつやり方を変えて行くようにしましょう。急がないことが古いやり方を手放すうえで、成功させる条件なのです。

成人したいま、戦いは終わっています。戦場から帰還すること、帰還したら傷の手当をして回復をめざす。サバイバーに幸多いことを願います。

併せて、「不安」がどれほど人を傷つけているかについて真摯に考えるべきです。そして私たちがコミュニケーションスキルを磨くことで、ムダな不安をどれだけ軽減できるのかを認識したいものです。


 余談ですが、ほとんどの人に身近なテレビ箱のなかでは、報道、娯楽を問わず、攻撃的な言い回し、感情的な態度がエスカレートする一方です。こんなものに親しみながら子供が健全に育つとは考えにくい時代です。大切にされている実感が子育ての基本です。

2010年3月27日土曜日

アルコール依存症者の家族はナニがどう違う



アルコール依存症者を持った家族は、依存症者と同じように起こっている現実を見ようとしない特徴があります。依存症者も家族も同じように否認するので、子供も成長過程で現実を否認する習慣を身につけていきます。

否認するメリットは家族が不安の防衛です。破綻する恐怖を認識しなくて済むことです。家庭内で起こったことは公言しないことに始まって、一貫性がないこと、予測不可能であること、混乱していることが暗黙のルールとして家族に浸透します。家庭は理解や成長する場ではなくなります。否認するメリットは大きなデメリットに反転します。

前日の会話の内容が、今日になれば一転しているのは日常的になります。これはアルコールの影響であると共に人格が変化する2つの側面の結果です。

子供は約束をしてくれた親を慕い信頼しますが、翌日にはそのかけらすら味わうことができなくなり失望し落胆します。繰り返しやってくる失望を乗り越えるために、学んでいた「否認」を使って乗り越えます。期待しなければ、望まなければ傷つくことはないと考えるようになります。自分の願望を自ら認識しないように自分を躾けていきます。

その一方で、彼らは、隣あるいはどこかに完全な家庭があると信じます。不合理な比較をするようになり、「恥」を終始妄想することになります。何に対しても自信がなく、安全と認識した世界においてのみ、自己表現を試みます。「白か黒か」「すべてか無か」の極端な発想は、家族間のルールで培われています。

たとえばある物事について、父親がノーと言い、母親はイエスと言う。両者の間では、コミュニケーションが希薄な上、逆転は日常的なので、アルコール依存症者の家族では一貫した決め事ができない仕組みになっています。

子供は二つの相反するルールを持つので、混乱します。したいことができない、言いたいことが言えない。引き裂かれてしまいます。自分の願望とそれを否定した者の願望を受け入れてしまします。混乱が起こりますが、否認が習慣化しているので、本来の欲求を自分なりに無理な理由づけをして抑圧します。自分の欲求に気がつかなければ自分は傷つかないし、失望しないと考えるのです。こうしてますます自分の欲求がはっきりしなくなります。

他者とのコミュニケーションでは、壊れた堤防を越えて相手の欲求が入ってくるようになり、自分の欲求と相手の欲求が混在するようになってきます。この状況には親和性があり、自ら堤防を壊すことに抵抗を持たなくなります。

彼らは「白か黒か」「すべてか無か」の選択に安心し好みます。「中間」が苦手です。その理由は、これまでの説明で分かっていただけると思いますが、残念なことに現実的では機能的ではありません。

アルコール依存症者のいる家族の行動を正常、異常で判断することは正しくありません。そのような判断方法が改善のプロセスになることもありません。そのやり方は機能的かそうでないかで判断することが、回復のプロセスに欠かせません。

彼らは自分のやり方が正しいと信じています。事実自分や家族の身を守るための工夫に満ちています。ライオンの追いかけられた者が逃げ場を選ぶ余裕がなく、たまたま選んだ場所が危険な洞窟だったとして、それを異常と決め付けることはできないのです。

機能的な仕組みに変えていくとは、そこは危険だから安全な場所に移動しなさいということでしかないのです。

機能的な家族とは、なによりもまず役割が機能していることです。役割が機能することでふさわしい能力が求められます。父親は一家のリーダーとしての能力、母親には裏方としての能力、子供には子供にふさわしい能力がそれぞれ求められます。子供は食料の買い物や料理、家の雑用、車の移動などを期待されることはありません。親が負うべき責任を負うことはありません。子供は親でなく。親は子供ではありません。

それぞれが自分にふさわしい能力を身につけるように努力します。そのプロセスは一貫していて、子供は自分が愛されていると信じています。今日がそうであるように明日も同じと信じています。物事にどう対処しどのように責任を取るのかを教えられます。家族の一員として安心して努力できます。

家族それぞれの努力が問題を乗り越える能力の基礎になります、こうして家族は問題があっても乗り越える機能を持つように育っていきます。最初からすべてが機能しているわけでなく、機能するようにしていくのです。

機能的な家庭ではルールは明快単純で、問題があったときには柔軟に変更して、家族全員に浸透させます。ルールは自分勝手に気まぐれに毎日変わることも、時間毎に変わることもありません。子供たちは何を期待されているか分かっています。当たり前といえばそうですが、驚くべきことにこの仕組みは優秀な会社と全く同じです。

機能していない家族では、今日と明日は同じではなく、いつ暴力を受け捨てられるかも知れない恐怖があります。愛されていない恐怖が支配します。物事がコントロールできない不安に脅かされています。自分以上にうまくやれる人を発見できない孤立感が可能性を蝕みます、失敗は見捨てられる機会に思えます。繰り返し見捨てられ感を体験します。この体験が人生への勇気を食いつぶします。恐怖心を持ったまま社会に出て行きます。

彼らに必要なのは、機能回復です。安全な場所でチャレンジできる体験をすることで勇気を取り戻すことです。他者の願望のために生きるのではなく、自分の願望のために人生を使うために失った機能を取り戻すことです。誤った思い込みを知って、なにが必要でなにが不必要なのか、自分の人生のある場所に引っ越しするために能力の取捨選択する。回復は目標に取り組むと最初はゆっくり、やがて本当の自分にめざめます。