2011年11月13日日曜日

自分を変える最初の関門

落ち着かない気分は、ふつう心地のよいものではありません。心が乱れるのは自分の内側か自分の外側の世界に何か問題があるからです。

こういう場合には対策が必要ですが、人間にはできることとできないことがあります。自分自身のことは自分にできますが、自分の外側にあることは自分にはできません。外側のことというのは、他者、状況などです。

変化を嫌う人は、他者、状況を変えようとします。また変わる必要が解っていても、Yes,But,If........その通り、しかし、もしを使って否定します。つまり「なるほど、その通りです。でも○○○○○なので、それは出来ないですね。もし、状況が
変わればやりたいですが」というようにして認めないのです。この構文を使っている限り、変化が起こることはあり得ないのです。

 それにしてもなぜ変わりたくないのでしょうか?人に頼ったり、弱さを見せると嫌な顔をされる環境で育ったことに原因があるのかも知れません。そのような人にとって最も都合がいいのは状況が変わってくれることなのです。状況をコントロールしようとします。しかし状況を変えることは無理な相談です。むしろ状況をコントロールしょうとするほど状態は悪くなります。

状況のコントロールに熱心でいると、失敗はいつも恥であり恐怖でしかなく、解決の扉というもうひとつの側面であることに気がつかなくなります。これではPDCAを使う機会を放棄しているのと同じです。

もし、自分を変えることに集中していると、自然にPDCAを使わざるを得なくなります。行動した後に何が起こったかを見て、どこに間違いがあったか、どこを直せばいいのか、その結果を再度実行してみる。あきらめない限り失敗はなく、やがて成
功にたどり着きます。こうした考え方も状況を変えることしか頭にないと「そんなにうまくいくはずがない」と否定的になります。いつも考えてばかりの習慣が身についていて行動しないから解らないのです。

いつも考えてばかりいるのは、弱さがバレルのが極端にイヤだからです。人間は相反する思考あるいは感情を持っていると、引き裂かれた状態と同じで身動きできなくなります。

 「何かがおかしい」と感じるとき、実際に「何かがおかしい」ものです。その認識が最初の段階ですが、やがて本能的に次の段階に進み「問題など存在しない」という否認の段階に進んでしまうとそれまでです。鈍い人はそこで止まりますが、敏
感な人は相反する認識が交互に現れてストレスになります・自己否定感が強いと、不快感を手離したいので、第二段階の認識を意識しようとせず切り離しますが、潜在意識に潜り込みストレスになります。

 自分を変えるためには、第二段階の認識をすることです。そしてPDCAを回すのです。いまこの瞬間に集中するようにします。

 自分を変えるためのスタートの機会になるのは、安心感を保つことができる適切な対策を見つけることです。ほとんどの人はそれまで、怖くて自分を変えることはできないでしょう。つまり自分の実力を認識した上で、つまり自分に合った効果的
な方法を発見することが必要なのです。
 しかし簡単に発見できるものではありません。その発見は何度もPDCAを回してみないと分らないのです。自分に変化を起こす上で避けて通れない必要なスキルなのです。

2011年11月6日日曜日

負の伝播

今回は【負の伝播】についてお話ししてみたいと思います。

 虐待は誰にも起こることではありませんが、起こった場合、間違いなく、受けた側の人の心に特別な文化とルールを創ります。それは長い期間、その人を支配し苦めます。どこかで断ち切って、その特異な文化とルールを断ち切らないと、世代をえて何代にも亘って伝播することは珍しくありません。

 いま今日の段階で、なんとなく生き辛さを感じる人は、間違った文化とルールの影響を受けていないか、用心深く自分を観察するのは悪いことではありません。直接親から酷い目に合っていても、そんな記憶はない」と断言する人もいるので、間接的に受けている場合には認識できなくても不思議でありません。さらに自分自身は親から愛された記憶しかなくても、親の中に間違った文化とルールが植えつけられていた場合には伝播してもおかしくありません。

 間違った文化とルールが意識的、あるいは無意識に五感を通じて入り込んだ場合には、自分では意識できない人生脚本に支配されることは珍しくないのです。そして価値観以前の存在のあり方として、自分の文化として自身全般に影響します。

克服は自他尊重を大事にすることです。他者が自分を傷つけることを許さない。逆に自分も同じです。自分のケアは自分でする、自分のことは自分が引き受ける、つまり主体性を持つことから始まります。他者と比較する必要はありません。自分の素晴らしさを自覚しましょう。

「私にはそんな価値はありません」「私は取るに足らないつまらない人間だ」と思う人がいるかも知れませんが、人は誰でも、人を笑顔にする乙とができます。人はみんな祝福された素晴らしい存在なのです。

他者と比較する必要などありません。私たちは物心がついたころから試験の点数で順位づけされてきたので、どうしても劣等感を覚えがちです。しかし誰にでも、大切な誰かに喜んでもらった経験はあるはずです。それこそがじぶん再生のヒントであり、自分の価値を創造する原点です。学歴や試験の点数など関係なく人は素晴らしい存在なのです。

しかし、なんらかの事情で自分の素晴らしさを認識できず、もったいないことですが心が折れている人もいます。しかも昔から日本では謙遜が美徳とされているので、自分を素晴らしい存在だと認めることに抵抗のある人も少なくありませんが、自分
を卑下し自分をつまらない人間だと思うことと、謙虚さは全く異なります。自分を素晴らしい存在だと信じられるから、なにごとにも謙虚に感謝できるようになり、逆に素晴らしい存在だと信じていない人ほど、謙虚になれないのが実際です。

 まず自分を信じてみましょう。
これは負の伝播を受けた人にお伝えすることですが、自分自身の面倒をみるという考え方が、虐待を受けた子供たちの新しい行動の一部になると、質的な変化が起こります。例えば、以前は罪の意識に押しつぶされてできなかったことが自分で責任を引き受けてできるようになります。主体性を持って遊んだり楽しんだりできるようになります。

自分と他者との問、特に親との聞に適切な境界線を引き始めると、限界を設定できるようになります。もうひどい扱いは許せなくなるし、他者の思慮のない行動も受け入れられなくなる。その一方で適切に人を信頼できるし、感情を解放するように
なる。この信頼と適切な対応を伸ばすと約束が出来るようになり、信頼関係が築けるようになります。それは平穏と回復につながります。

2011年11月1日火曜日

声に出せない人

かって彼女は職場を変わたばかりで、本来の彼女の領分の仕事だけに留まらず、誰でもできることまで、次々に飛んでくる指示に醐弄されなから、引き受けていました。明らかに処理能力を超える仕事量を引き受けていたのです。

その時、キャリアがない自分には、それが普通のことだと思っていたようです。乗り越えるべきことで、「できませんJ「助けてください」と言ったら最後、無能の烙印を押されてしまうと考えていました。そんなことしたら会社のなかで居場所を失う考えていたのです。

しかしその努力も虚しく、やがて体調を崩して自宅休養。顧客や職場内仲間に迷惑を掛けることに至って、ギリギリでつないでいた信頼を失ったのです。

「ベッドの中で、涙が止まりませんでした。」と言います。サボっているわけでもなく、睡眠時間も惜しんで懸命にやっているのに、どうしてこんなことになってしまったのか。悔しさと腹立たしさが湧き上がってくるものの、それさえどこに向けいていいのか、分からない状態が続いたのです。なぜ「NO」と素直に言えなかったのか。彼女は後悔しましたが、時すでに遅し。理由も対処の方法も分らないままで、無力感と自己否定感だけが強く残ったのです。

彼女の痛みを聴きながら、私は自分の過去を思い起こしていました。
私もサラリーマン時代に、2年間の処理能力を超える日々の果てに半年間の入院生活を過ごし、つごう1年間の療養生活を体験、さらにその後遺症に20年以上の歳月を費やしているからです。
しかし、私には後悔はなく、自己効力感があります。

この違いはなんでしょう。アサーティブであったかどうかの違いなのです。
可哀相に彼女はアサーティブでありませんでした。私の場合には手段に問題はあったものの、私はやりたいことをやったまでのことです。

もし、あなたが誰かを好きになって、その人を幸福にしたいと思って、自分の気持ちを告白するのと、恥ずかしさや不安から自分の気持ちを告白しないとしたら、どちらを選びますか?
その選択を分けるのは、プライドだと思うのです。
その人と関わって「幸福にしたい」のか。「幸福にしてもらいたいのか」の違い、つまり主体性は誰にあるのかという問題です。

 同じアサーティブ(積極的自己主張)にも、アサーティブとノン・アサーティブがあります。さらにノン・アサーティブにも「自分の権利を気遣わないノン・アサーティブ」と「他者の権利を気遣わないノン・アサーティブ」があります。
彼女の場合は、他者の権利を尊重して「自分の権利を気遣わないノン・アサーティブ」だったのです。そして私はアサーティブでしたが、「自分の権利」と「他者の権利」を守るためのアサーティブだったのです。「自分の権利」と「他者の権利」を守るために、ノンアサーティブになれなかったのです。

「できませんJ「助けてください」「私はこうしたい」と声に出すのはワガママなのでしょうか?そのときどきの心の動きや感情を言葉で表現し、周りの人に伝え、わかってもらうことができれば、随分と楽になれます。

しかし、彼女のようにそうしない人がたくさんいます。
そうしないでいると欲求は消えてしまうのでしょうか?

確かに感情のように消えていくものもあります。しかし本当に必要なことは消えません。では抑えこんだ欲求はどうなるのでしょうか?

感情的な行動となって表現されることが少なくありません。
感情的な行動とは、感情を行動で表現するのです。つまり腹が立っていることが分るような行動をするのです。してほしいことがあれば、プンプン、ツンツンするとかして、相手の責任にすり替えて相手に考えさせるのです。

これが問題をさらに深めます。これにひっかかるのは自己否定感の強い人です。大局的に見れば精神的な虐待が起こっているのですが、強迫的な行動が多い自己否定感の持ち主は気がつきません。感情的な行動の受け皿として都合の良い相手が自分の周囲に残ります。必要としながら相手をさげすむアンビバレンツな状態が日常化します。

感情的な行動にも、言葉で表現する場合がありますが、言葉で理解してもらうことをしないで、どちらかというと態度が主で、そのどさくさで言葉を使うだけのもの。つまり感情の勢いに言葉を載せるのです。

感情の勢いに任せるには、感情の高まりを待つ必要があります。つまり我慢を続けてヒートアップさせますが、それまでの時間、その片付いていない問題が続いているとは限りません。つまり沸点に達するまで、ずっと同じことを繰り返し考えてヒートアップさせているのです。

この状態を他者が気づいたら、「まだ、あのことを考えているの?」と呆れることも少なくないのはそのためです。
この間、本来できることには手をつけられません。あるいはうわの空で取り組むので効率が悪く成果もパッとしません。その手直しに余計な時間が費やされます。他者が眠っている間も働いているというようなことが起こってきます。心身に疲労は高まりますが、報われることはなにもないのです。不満と怒りが蓄積されていきます。

こんな手のかかることをするのは、言葉で表現できないからです。恥ずかしい、悪い、自分にそんな要求する資格がないなど、負のイメージが強いからです。負のイメージを強めているのは不満と怒りです。

自己否定感が強いのに、他者に対する否定感も強い。その一方で他者には叶わないという気持ちがあります。他者に対して肯定感情と否定感情があり、相手によって使い分けることでバランスをとります。
自分が考えた強者にはへつらい、弱者には高飛車になります。アサーティブでいう対等、自己責任を自らの誤った判断で破壊し、率直、誠実は誤った責任感によって葬り去られます。

「できませんJ「助けてください」「私はこうしたい」と声に出すことは、誰にも許されている人権なのです。
問題はこの判断を間違ったことから始まっていて、そのサインがそのときどきの心の動きや感情を言葉で表現しないことなのです。

言葉に出すのです。
出せるヒントをお伝えしましょう。

もし、あなたが誰かを好きになって、その人を幸福にしたいと思って、自分の気持ちを告白するのと、恥ずかしさや不安から自分の気持ちを告白しないとしたら、どちらを選びますか?

その選択を分けるのは、プライドだと思うのです。
プライドの中味は、主体性つまり責任を引き受ける勇気です。
幸福にしたいのかされたいのか、選択と判断のポイントはそこです。
責任を引き受ける勇気がないときには、黙って黙々と自信がつくように力を育みましょう。幸福にしたいと思うなら声に出しましょう。

これはすべてに通じることです。家族、友人、顧客、上司・部下とのコミュニケーションでも同じです。だかた人のことを人間という。会話のコツは「傾聴」と言われるのも、そこに理由があります。



相手の喜びを自分の喜びのように感じ扱うこと、そこから自分の喜びが相手にも自分の喜びのように感じて扱ってもらえる関係が生まれる。それをあなたが理解した後でも、感情を素直に言葉で表すことが出来ない場合があります。

感情を言葉で伝えることによって起こる相手の反応が怖くて、まだ表現できなかったとしても、それを恥じることはありません。まだ恐ろしいと思っても不思議ではないし、それならそれでいいのです。

もっと考え抜くと、なぜなのか理解を深めるはずです。それから始めてもいいのです。お互いの感情をお互いに表現することが、脅威でなく安心なことだと感じてからでいいのです。

但し、何も新しい感情が芽生えてこないとしたら、注意が必要です。越えるべき障害を越える努力をしていない証しだからです。楽しい暮らしを手にするために、越えるべき障害があることを忘れないでください。越えようとしていたら必ず何らかの未体験の感情が芽生えてきます。それはサインです。そのサインがどのような形をしていても、たとえば喜びであったり、恐れであったりしても、気にすることはありません。どのようなものであれ、新しい感情は変化を求める証しなのです。

なぜなら、新しい感情は、感情を麻痺させる習慣からの克服を求める感情だからです。
そこでなんのために感情を麻痺させる必要があるのかと不思議がるかも知れない。しかし、それは不思議ではなく、心身を守るために、無意識の内に自分の感情に気づかないようにしてきたからなのです。もし、あなたが感情を持ったとして、それがことごとく裏切られただけでなく、恐怖、不安、挫折、絶望を感じたとしたら、感情に目をそむけるようになったとしても、苦肉の策であって当然なのです。

そろそろ、感情を言葉で伝える不安について、理解が進んだかも知れませんね。
虐待の経験は、受けていても受けていないと思い込んでいる人が少なくありません。同じくアルコール依存症者の家庭で育ったにもかかわらず、アルコール依存症者はいなかったと思い込んでいる人も少なくありません。

それを認識することは、克服の手助けになることも少なくないのですが、成人したいま、すでに終わったことである場合には認識できないのなら無理にしなくてもいいと思います。問題は感情を言葉で表現することに不安があるのか、ないのか。あるなら克服を意識しましょう。