2015年6月17日水曜日

男の恋は単純



なにごとにおいても、男の思考と行動は単純でわかりやすいものですが、女子力が不足しているとわからない生き物に思えます。まず最初に男と女は全く違う生き物だということを認識しておきましょう。

恋愛でも同じです。一生連れ添うことになる本気の恋の始まりも同じで、子どもがおまけのおもちゃをもらって大喜びするレベルだと言っても過言ではありません。

それだけに本気ラブかお遊びかどうかは行動で判別できます。女子力がズレていなければすぐにわかりますが、ズレてると分からなくなります。ですから女性の方に問題があると考える方がうまく修正できます。実際、ズレてる女子が少なくありません。

男性は社会と関わって生きていかなければなりません。だから社会力を訴求する点で、真剣に考えている相手と遊び相手とでは、決定的に違います。
社会に於ける自分のポジション、つまり社会で生きる力を伝えようとして行動に表れます。それが何よりの誠意になります。いままで遊んでいたのが一切遊ばなくなったとかいう事例はもっともわかりやすいものです。



【プライドを守ろうとする】

「彼がお金を貸してくれと言ったので貸した。」という女性がいます。そういうこともあるでしょうが、友達ならあっても、本気で愛している女性から借りることは余程でない限りありません。

なぜなら先に言ったように男は社会性を重んじる生き物だからです。本気の恋人には無理してでも社会的にしっかりしてると見せようとします。男はプライドがすべてだといっても過言でないくらいプライドを大事にする生き物です。このため結婚後に想像していた人と違ったという問題が起こることさえあるほどです。

女性の場合、仕事中は笑顔で愛想良く接することにためらいを持ちません。それで自分に気があるのではと勘違いされることもあります。裏返せば、「あの男に気があるのでは?」と恋人に誤解されやすいということです。自分にしか見せないと思っていた笑顔を他の男性に見せていると仕事だから仕方がないと思っていても、想像する以上に男をイライラさせてしまうのは、男のプライドが傷つくからです。

プライドの高さは社会力と結びついていて、社会力が高いと思いたい、見せたい時ほど、プライドも高くなるのです。ですから本気の相手には無理してでも頑張ろうとします。遊びの相手、どうでもいい相手なら、プライドへのこだわりが低下します。



【彼女の尊厳を守ろうとする。】

男性のもともとの在り方に個人差がありますが、優しくて理解的な自分を見せようと頑張ります。「あなただけは特別だ」と訴求していますが、これも社会力の延長にあります。


【自分の周囲に公表する】

結婚は社会に二人の関係をステータスとして認知してもらうことです。このように社会に公表することが、「社会力」として重要な意味を持ちます。同棲でも自治体への届けはないものの同じことは起こります。ですから恋愛のスタート時期から、周囲に認めてもらおうとします。初期段階では友達とか差し支えがないなら職場仲間などに誰と交際しているか、自ら漏らします。認知して欲しくて漏らしたくなるのです。別れる前提の同棲や遊び相手の場合でも似たようなことは起こりますが、決定的な違いは同じ価値観を持った相手、グループに限られることです。男性の本心はとても簡単なので、女性はその違いを見極める能力があればすぐに分かります。


【反応が速い】

本命の彼女は大事にしょうと思うので、すべてのことへの反応が速くなります。恋のかけひきがあって、本心を確かめるためにわざとじらすという行為も受け身の女性ならではのことで、男性には見られない行為です。自分の行動がすべての男性には必要がないからです。これも社会力の表現なのです。


【セックスの関係の有無は気にしない】

遊び相手にはセックスの関係がすべてです。それ以外の女性は、異性としてみていない恋愛上ではどうでもいい相手。本気の相手とは、もちろん体の関係を求めていますが、それがないからといって問題にしません。我慢できるのも女性を尊重しているからです。とてもわかりやすい男性の行動です。むしろこの問題は女性側の考え方でトラブります。

セックス目的と思われたくないのでアプローチしない男性もいますが、求めてこないから自分のことを愛していないのではないかと勘ぐる女性が少なくありません。アプローチを拒否すると嫌われないかと不安がる女性も少なくありませんが、本気で愛しているなら女性の尊厳を守ろうとするものです。

ところが社会性を気にしないセックス目的で言いよる男性が出てきます。こういう男性に感情が揺らぐと本気で愛していた誠実なが男性への垣根の高さが一気に低くなってしまいます。女性も本気で考えていないからです。

関係をもってしまうと自分の言い訳ができなくなるので、辻褄を合わせようと「好きだったからそういう関係になった」と心がバランスをとります。結果からいうと本気で好きだった男性には無理難題を吹っかけ、どうでもいいと思っていた男性には無防備に近いような接し方をしてしまうという矛盾が起こってしまうのです。


恋におちた男性の行動は単純です。逆に女性の行動は複雑です。
そのギャップが理解できることは女子力を発揮するうえで大前提です。




2015年5月24日日曜日

人が変化するには、8つのステップ














前回、人が変化するには、8つのステップを通過することをお話しました。

前回は、その最初の関門【第1ステップ】についてお話しました。

今回は、その続きである【第1ステップ】~【第8ステップ】についてお話します。


【第2ステップ 否認】

変化に到達する8ステップ。2つめのステップは、否認です。否認の段階では危機
を認めようとせずに、「きっと何もかもうまくいくさ」と表向き楽観的にとらえま
す。「知らんぷりしていればいい。」と決め込み、「何かの間違いだ。きっと問題
はないんだ。」といった不快感から逃げます。

現実が事実を突きつけるまでは、自己防衛的な思い込みではぐらかしますが、実際
には潜在意識のレベルで気になっています。否認は自分への嘘でしかありません。
問題が先送りされているだけで、その間もストレスが自分を痛めつけています。

そういう経験はありませんか?
不快感から身を守ろうとする心情は理解できますが、このようなパターンは百害あって一利なしです。この姿勢を克服する意識を持つことが変化のはじまりになります。なぜなら不快感から身を守ろうとする心情そのものが、危機を感じていることに他ならないからです。何もなければ否認することも、逃げることもないのです。
変化以前の危機を察知するスキルまで自分で封じ込めているのです。

このような態度は世界的な金融危機にも通じると思いませんか?

変化で何かを失う恐怖感、あるいは大した理由もないままに変わりたくない欲求が自分の心を束縛しているのです。解き放つには真正面から向きしかないのです。人生を豊かにする鍵は、どこか遠くにあるわけではなく、あなたの手にあります。



【第3ステップ 現実と向き合う】

ステップ3では、「否認がなくなり、助けの必要性や対策を考えずにはいられなくなります。「もう、逃けることはできないL というあきらめから現実に向き合うようになります。

変化の必要性を認めることに苛立ちを感じても、徐々に抵抗できなくなってきます。
それに自分が気づいて受け入れてしまうと、現実を率直に見る目が確かになり、受け入れ速度が加速度します。

しかし、まっすぐに進むことは稀で、一進一退が起こり、そのプロセスでは自己憐憫の感情に陥ることもあります。恐怖と希望、不安と意欲という相反する意識が同時に立ち上がり混乱します。この段階では失うことの悲しみに落胆することもありますが、心はすでに現実を認めているので、時間がかかっても、葛藤が収束に向かいだし、やがて未知の世界に進む判断が現実のものになってきます。

葛藤が終わると、アンブバレンツな状態から解放され安心するようになります。この段階で意識と現実がひとつになり、意識がはっきりしてきます。完全ではないものの変化のはじまりを迎えます。


【第4ステップ  慣れとこだわりを捨てる】

 ステップ4の特徴は、自分の居場所を失ったような気分になります。どこへ行こうとしているのかさえ曖昧ですが、どこかに進まなければいけないことだけは分っているという頼りのない状態です。
孤立感、孤独を感じて不安になります。それは誰でもそうなることで自分を否定する必要はありません。

だからステップ4では、人の教えを受け入れられる素直で謙虚な態度をとることが重要です。そうすると孤立感から救われますが、助けを否認するとストレスが高じて状況は悪くなるだけです。堂々と率直に助けを求めればいいのです。

なじみのある古いやり方が適切とは思えなくても、より良い未体験の方法が分っているわけでもないので、ただ成り行きを見守っている気分になり、手も足も出ない自分が情けなくなるかも知れません。そうすると古いやり方が適切でなくても、感情的になり、未練を持つようになります。

もう二度と戻ってこない恐怖がありますが、自分が捨てるものに別れと告げる覚悟が必要です。もし悲しくなるなら、自分流にセレモニーをしたっていいのです。そして変化に自主的にポジティブに関わるように意識して、万一、犠牲感があるなら誤解を手離すようにすることが重要です。

人には自分のルールとも言える行動パターンがあります。自分の苦手意識を避けて適応しているかどうかに関係なく、取り組んだというアリバイ作りでしかない、やりやすいように無意識に作った行動パターンです。

この際、見直してみるチャンスです。効果のないアリバイ作りのためのやり方を捨てるときです。捨てた後にPDCAで新しいルールを作るようにするのです。

新しいルールは、やがて変化が起こるときに集約されます。PDCAを続けて、疑問とナゾに慣れるようにします。この方法はもっとも効果的な練習です。PDCAを繰り返すうちに効果的なやり方を発見します。


【第5ステップ 目的と向き合う】

第5ステップは変化のプロセスでも、もっとも重要なステップです。不安や悲しみを越えて、自分の本心と向き合う段階です。

 状況を受け入れて、そこから立ち上がります。目標を達成したらいま以上に自分は進化し、よりよい状態が手に入る」と考えるようになります。

このステップでは、まだ受け入れざるを得ないという諦めに似た消極的な一面が残っていますが、そこからモチベーションを高めて積極的に関わっていこうと決断する変化が始まります。人間の最も美しい一瞬を見る事が出来ます。

自分が心から望んでいる>状態をはっきりと具体的にイメージすることがモチベーションを高め、主体性を獲得します。これはよりよい結果を出す上で特に効果的です。

イメージが具体的であればあるほど、イメージは羅針盤の役割を果たし、主体性を発揮します。主体性を持てば持つほど自分を過去のこわわりから解放します。

重要なことは、感情的になってカラ元気で刹那的にモチベーションをあげるのではなく、客観的に考え、現実的で具体的なプランを持つことです。

第5ステップでは、いくら本心と向き合っても次のことをクリアしなければ前に進めません。軽く考えずに以下の点をチェックしてクリアするようにします。

 ①現実的であること。他者の価値観、マスコミの価値観に惑わされずに。自身が本当に求めていることを認識するようにします。やるのは自分だと意識して自分が使えるスキルと助けが得られる環境を認識します。

 ②具体的であること。目的・目標の実現方法と達成程度の確認方法を明確にします。

 ③因果関係を睨んだ変化を起こせること。マイナーチェンジとフルチェンジの違いに似て、行動の修正と変化は違います。変化は本質から変えることなので、本質を理解しないと変えられません。必要な学習を実行して因果関係を睨んだ変化を起こす。する。これが一番難易度が高いでしょう。

 ④全体的であるニと。自分に関係する全要素をひとつの仕組みとして考えます。一部にこだわらず全体の因果関係を考えて達成するための行動します。③と④は関連があり、ひとつとして考えるといいが共に難易度が高いが屈しないようにします。

 ⑤いい意味で苦手意識を認識しておく。苦手なことに取り組むという前提を意識しておく。その目的・目標に愛情(こだわり)を持たず、軽く考えて取り組まないことが大切です。変化することは誰にも難易度の高いことなのです。

 ⑥柔軟性を持つ。社会は日々変化しています。新しい情報、変化に出会って、実行していることの見直しが必要になるかもしれません。修正することが起こるのは当然だ。朝令暮改を念頭に置いておきましょう。



【第6ステップ 選択】

私にはできるかもしれないと可能性を信じると、逆に決して道は一つというわけではないと仮想します。自分がこれまでと違うことを自分に要求するわけですから、当然のことだと思います。

そうは言ってもまったく未経験、未知の世界に簡単に行ける訳でもないので、仮想と現実の間を行ったり来たり試行錯誤するようになります。目的を現実のものにする上で最も好ましい選択肢を見きわめようとするのです。
この作業を通じて飛び込む準備が万全かどうか、自分を見極めているのです。

この段階で無意識の人生脚本に気をつけるようにします。油断するとネガティブな人生脚本に組み込まれてしまうからです。対策としては幸福なシナリオを具体的につくることです。具体的にするほど危険を避けることができます。

完璧主義の人は、過ちに対する不安と恐怖が表面に出てくる場合もありますが、自信がなくても行動することが大事になります。そうしてPDCAをフル回転させるといいのです。

あれこれ思い悩んで確実さを求めて決定を先延ばしにして、結局、時間を無駄にすることも少なくありません。現実には、どんなに重大な決定であっても、完全なデータをそろえることは不可能です。行動してPDCAをフル回転させることが重要です。

完璧さを自らに要求するならPDCAをフル回転することに関心を持つほうが重要です。



【第7ステップ 決断】

 障害となっている恐怖心と、恐怖から生じる抵抗を認めない限り、払拭のしょうがありません。払拭できるから次のステップに進めるわけです。それまではどれほど自分に変化することを誓っても破ってしまいます。

 特に物事をコントロールしようとする人や、格好をつけたい欲求を捨てられない人には、PDCAを使いまくって、失敗を厭わず正解を発見することはできません。この種の人には、これ以上前に進むことは無理な相談で、自らが恐怖心を体裁で覆い隠す習慣を克服しない限りほとんど期待が出来ません。「問題解決スキル」を含んだ「意志決定スキル」の脆弱さが原因です。

 決定するために、事実を一つ残らず把握し、必要な対策を打っておこうと考えます。それは理想であっても、すべての事実を把握するのは神技です。人間技でないことを平凡な自分に要求するわけですから、自分の欲求に自分が押潰されてしまい、身動きがとれなくなり行動に踏み切れないのです。恋した相手がイエスと言う保証がないと気持ちを打ち明けないのと同じです。

 自分を変えるには、この段階を越えて次の第7ステップに進まないと行くしかないのですが、見栄や体裁で自分の弱さをガードしている自分を変えるのが難しい人はここで元の状態の方向へUターンしてしまうのです。正に運命の分かれ道なのです。考えてみてください。恋した相手がイエスと言う保証がないと気持ちを打ち明けないというのは、何もなかったのと同じです。

余談になりますが、得恋は自分が傷つかないと考えがちですが、実は自分も相手も傷つくことなのです。人を思うとは記憶することであり、しかもすぐに忘れる一時的な記憶ではありません。心に深く刻むから、その段階ですでに自分の心に傷つけているのです。得恋、失恋、結果がどちらでも同じなのです。それが分かっていたら、行動して傷つくほうがいいのです。

しかもビジネスや研究で、PDCAを回す場合では、どこから始まっても同じなのです。
もし」投資が必要な場合は、最小に投資から始めるといいのです。つまりここでも見栄や体裁が邪魔なのです。理想とする条件が整わないから始めないというのは邪道なのです。克服するには一度自分の感情を公然と認めることがとても大切です。

 第7ステップに必要なのは、「これでいい」という思い切りです。それはあきらめにも似ていますが、違う点は不退転の決意の有無です。それはどんなに恥をかいても、石にかじつついてPDCAを回し続ける覚悟に他なりません。そこにたどり着いた瞬間、自分の内側でバラバラに主張していた意見が、遂にひとつにまとまり、合意したことを感じます。遂に統合が起こり、霧が晴れたように、迷いが消えたのです。

第7ステップの土台になっているのは共感性と自己認識スキルです。この能力を伸ばすには、日常的にバラバラな意見、主張にある相違点を否定せずに一旦受け入れた上で、相違点を明確にして、点と点をつないでまとめあげるトレーニングをしておくことです。このトレーニングをするほどその努力は創造力になって結実します。このスキルは男女問わず、人の営みのすべての面で力を発揮します。


【第8ステップ 統合】

 このステップに辿りついて、統合の効果で、よくやくすっきりとした安定を感じます。統合は、新しい自分のアイデンティティの誕生を感じさせます。

 すでに自分が変わったように感じるでしょう。統合にとって、本当の自分に出会ったように感じます。それまで随所、随所に相反する考えがいくつもあった上、他者の価値観まで紛れ込んでいたアンビバレンツな自分しか知らなかったからです。統合によって、考えたこととは、別のことを感じ、さらにもう一つ別のことをするといったバラバラ感がなくなります。

 人に限らず部分がばらばらにされると完全感を失います。混乱の状態は人形をバラバラにすると目に入る混沌とした状態と同じです。統合はそれが完全に修復されたイメージとよく似ています。統合とは自分でも気がつかなかった自身の回復なのです。

感情、考え、行動は全体としてのまとまっていき、さらに経験することで、統合は深まります。以前より気づきの機会が多くなり、効果的に問題を処理できる能力が高まっていきます。副産物は平穏と安心、そして喜びです。

統合は問題の消滅ではありませんが、古い習慣や恐怖、信念を捨て、新しいものと結び、単なるアイデンティティーの変化ではなく、以前以上に強く、深く、幅広いアイデンティティーに変わるのです。

 個人的な変化は、環境(組織文化、配偶者の価値観など)に支えられなければ維持しにくいものです。気づいてバックアップしてくれる人がいると幸いですが、そうでない場合でも落胆せずに、「そんなものだ」と肯定的な解釈をして、自らサポート体制をつくるようにします。サポート体制をつくるには、自分が成し遂げた変化を受け入れて尊重してくれる人を見つけるようにする努力が大切です。

<アサーティブ〜積極的自己主張>の素晴らしさ














目標を達成するためには、計画が必要になります。計画は目標を達成する期日から逆算して、そのギャップを明らかにすることから始まります。

そうすると、何をいつまでに、どのようにして達成するか、<すること(Do)>を明らかにすることになります。

それはできていないことを明らかにするので、不安の山になります。

この段階で逃げ出す人が続出します。

しかし、ちょっと待ってください。不安は気分なので曖昧なものです。なので何が問題なのか、本当のところ何もわかっていないのです。

そこで不安を克服できる人は、計画を練り、必要な準備をします。一歩、一歩。進めたらいいので、マイルストーンを使い、目標を小さくまとめ、ギャップも小さくします。そうすると、いま何をしたらいいのかが簡単になります。不安が消えていきます。

ここで<在り方(Be)>つまり<態度>が重要になります。
マイルストーンを使い、目標を小さくまとめ、ギャップも小さくするのは、言って見れば<粘り>です。「目標は絶対達成する」という態度(在り方)が、ひとつひとつ、ギャップを具体的にして、達成する方法を探し出します。

そうすると、不安が具体的になって消えていきます。

この態度が<アサーティブ>なのです。積極的自己主張です。






2011年11月13日日曜日

自分を変える最初の関門

落ち着かない気分は、ふつう心地のよいものではありません。心が乱れるのは自分の内側か自分の外側の世界に何か問題があるからです。

こういう場合には対策が必要ですが、人間にはできることとできないことがあります。自分自身のことは自分にできますが、自分の外側にあることは自分にはできません。外側のことというのは、他者、状況などです。

変化を嫌う人は、他者、状況を変えようとします。また変わる必要が解っていても、Yes,But,If........その通り、しかし、もしを使って否定します。つまり「なるほど、その通りです。でも○○○○○なので、それは出来ないですね。もし、状況が
変わればやりたいですが」というようにして認めないのです。この構文を使っている限り、変化が起こることはあり得ないのです。

 それにしてもなぜ変わりたくないのでしょうか?人に頼ったり、弱さを見せると嫌な顔をされる環境で育ったことに原因があるのかも知れません。そのような人にとって最も都合がいいのは状況が変わってくれることなのです。状況をコントロールしようとします。しかし状況を変えることは無理な相談です。むしろ状況をコントロールしょうとするほど状態は悪くなります。

状況のコントロールに熱心でいると、失敗はいつも恥であり恐怖でしかなく、解決の扉というもうひとつの側面であることに気がつかなくなります。これではPDCAを使う機会を放棄しているのと同じです。

もし、自分を変えることに集中していると、自然にPDCAを使わざるを得なくなります。行動した後に何が起こったかを見て、どこに間違いがあったか、どこを直せばいいのか、その結果を再度実行してみる。あきらめない限り失敗はなく、やがて成
功にたどり着きます。こうした考え方も状況を変えることしか頭にないと「そんなにうまくいくはずがない」と否定的になります。いつも考えてばかりの習慣が身についていて行動しないから解らないのです。

いつも考えてばかりいるのは、弱さがバレルのが極端にイヤだからです。人間は相反する思考あるいは感情を持っていると、引き裂かれた状態と同じで身動きできなくなります。

 「何かがおかしい」と感じるとき、実際に「何かがおかしい」ものです。その認識が最初の段階ですが、やがて本能的に次の段階に進み「問題など存在しない」という否認の段階に進んでしまうとそれまでです。鈍い人はそこで止まりますが、敏
感な人は相反する認識が交互に現れてストレスになります・自己否定感が強いと、不快感を手離したいので、第二段階の認識を意識しようとせず切り離しますが、潜在意識に潜り込みストレスになります。

 自分を変えるためには、第二段階の認識をすることです。そしてPDCAを回すのです。いまこの瞬間に集中するようにします。

 自分を変えるためのスタートの機会になるのは、安心感を保つことができる適切な対策を見つけることです。ほとんどの人はそれまで、怖くて自分を変えることはできないでしょう。つまり自分の実力を認識した上で、つまり自分に合った効果的
な方法を発見することが必要なのです。
 しかし簡単に発見できるものではありません。その発見は何度もPDCAを回してみないと分らないのです。自分に変化を起こす上で避けて通れない必要なスキルなのです。

2011年11月6日日曜日

負の伝播

今回は【負の伝播】についてお話ししてみたいと思います。

 虐待は誰にも起こることではありませんが、起こった場合、間違いなく、受けた側の人の心に特別な文化とルールを創ります。それは長い期間、その人を支配し苦めます。どこかで断ち切って、その特異な文化とルールを断ち切らないと、世代をえて何代にも亘って伝播することは珍しくありません。

 いま今日の段階で、なんとなく生き辛さを感じる人は、間違った文化とルールの影響を受けていないか、用心深く自分を観察するのは悪いことではありません。直接親から酷い目に合っていても、そんな記憶はない」と断言する人もいるので、間接的に受けている場合には認識できなくても不思議でありません。さらに自分自身は親から愛された記憶しかなくても、親の中に間違った文化とルールが植えつけられていた場合には伝播してもおかしくありません。

 間違った文化とルールが意識的、あるいは無意識に五感を通じて入り込んだ場合には、自分では意識できない人生脚本に支配されることは珍しくないのです。そして価値観以前の存在のあり方として、自分の文化として自身全般に影響します。

克服は自他尊重を大事にすることです。他者が自分を傷つけることを許さない。逆に自分も同じです。自分のケアは自分でする、自分のことは自分が引き受ける、つまり主体性を持つことから始まります。他者と比較する必要はありません。自分の素晴らしさを自覚しましょう。

「私にはそんな価値はありません」「私は取るに足らないつまらない人間だ」と思う人がいるかも知れませんが、人は誰でも、人を笑顔にする乙とができます。人はみんな祝福された素晴らしい存在なのです。

他者と比較する必要などありません。私たちは物心がついたころから試験の点数で順位づけされてきたので、どうしても劣等感を覚えがちです。しかし誰にでも、大切な誰かに喜んでもらった経験はあるはずです。それこそがじぶん再生のヒントであり、自分の価値を創造する原点です。学歴や試験の点数など関係なく人は素晴らしい存在なのです。

しかし、なんらかの事情で自分の素晴らしさを認識できず、もったいないことですが心が折れている人もいます。しかも昔から日本では謙遜が美徳とされているので、自分を素晴らしい存在だと認めることに抵抗のある人も少なくありませんが、自分
を卑下し自分をつまらない人間だと思うことと、謙虚さは全く異なります。自分を素晴らしい存在だと信じられるから、なにごとにも謙虚に感謝できるようになり、逆に素晴らしい存在だと信じていない人ほど、謙虚になれないのが実際です。

 まず自分を信じてみましょう。
これは負の伝播を受けた人にお伝えすることですが、自分自身の面倒をみるという考え方が、虐待を受けた子供たちの新しい行動の一部になると、質的な変化が起こります。例えば、以前は罪の意識に押しつぶされてできなかったことが自分で責任を引き受けてできるようになります。主体性を持って遊んだり楽しんだりできるようになります。

自分と他者との問、特に親との聞に適切な境界線を引き始めると、限界を設定できるようになります。もうひどい扱いは許せなくなるし、他者の思慮のない行動も受け入れられなくなる。その一方で適切に人を信頼できるし、感情を解放するように
なる。この信頼と適切な対応を伸ばすと約束が出来るようになり、信頼関係が築けるようになります。それは平穏と回復につながります。

2011年11月1日火曜日

声に出せない人

かって彼女は職場を変わたばかりで、本来の彼女の領分の仕事だけに留まらず、誰でもできることまで、次々に飛んでくる指示に醐弄されなから、引き受けていました。明らかに処理能力を超える仕事量を引き受けていたのです。

その時、キャリアがない自分には、それが普通のことだと思っていたようです。乗り越えるべきことで、「できませんJ「助けてください」と言ったら最後、無能の烙印を押されてしまうと考えていました。そんなことしたら会社のなかで居場所を失う考えていたのです。

しかしその努力も虚しく、やがて体調を崩して自宅休養。顧客や職場内仲間に迷惑を掛けることに至って、ギリギリでつないでいた信頼を失ったのです。

「ベッドの中で、涙が止まりませんでした。」と言います。サボっているわけでもなく、睡眠時間も惜しんで懸命にやっているのに、どうしてこんなことになってしまったのか。悔しさと腹立たしさが湧き上がってくるものの、それさえどこに向けいていいのか、分からない状態が続いたのです。なぜ「NO」と素直に言えなかったのか。彼女は後悔しましたが、時すでに遅し。理由も対処の方法も分らないままで、無力感と自己否定感だけが強く残ったのです。

彼女の痛みを聴きながら、私は自分の過去を思い起こしていました。
私もサラリーマン時代に、2年間の処理能力を超える日々の果てに半年間の入院生活を過ごし、つごう1年間の療養生活を体験、さらにその後遺症に20年以上の歳月を費やしているからです。
しかし、私には後悔はなく、自己効力感があります。

この違いはなんでしょう。アサーティブであったかどうかの違いなのです。
可哀相に彼女はアサーティブでありませんでした。私の場合には手段に問題はあったものの、私はやりたいことをやったまでのことです。

もし、あなたが誰かを好きになって、その人を幸福にしたいと思って、自分の気持ちを告白するのと、恥ずかしさや不安から自分の気持ちを告白しないとしたら、どちらを選びますか?
その選択を分けるのは、プライドだと思うのです。
その人と関わって「幸福にしたい」のか。「幸福にしてもらいたいのか」の違い、つまり主体性は誰にあるのかという問題です。

 同じアサーティブ(積極的自己主張)にも、アサーティブとノン・アサーティブがあります。さらにノン・アサーティブにも「自分の権利を気遣わないノン・アサーティブ」と「他者の権利を気遣わないノン・アサーティブ」があります。
彼女の場合は、他者の権利を尊重して「自分の権利を気遣わないノン・アサーティブ」だったのです。そして私はアサーティブでしたが、「自分の権利」と「他者の権利」を守るためのアサーティブだったのです。「自分の権利」と「他者の権利」を守るために、ノンアサーティブになれなかったのです。

「できませんJ「助けてください」「私はこうしたい」と声に出すのはワガママなのでしょうか?そのときどきの心の動きや感情を言葉で表現し、周りの人に伝え、わかってもらうことができれば、随分と楽になれます。

しかし、彼女のようにそうしない人がたくさんいます。
そうしないでいると欲求は消えてしまうのでしょうか?

確かに感情のように消えていくものもあります。しかし本当に必要なことは消えません。では抑えこんだ欲求はどうなるのでしょうか?

感情的な行動となって表現されることが少なくありません。
感情的な行動とは、感情を行動で表現するのです。つまり腹が立っていることが分るような行動をするのです。してほしいことがあれば、プンプン、ツンツンするとかして、相手の責任にすり替えて相手に考えさせるのです。

これが問題をさらに深めます。これにひっかかるのは自己否定感の強い人です。大局的に見れば精神的な虐待が起こっているのですが、強迫的な行動が多い自己否定感の持ち主は気がつきません。感情的な行動の受け皿として都合の良い相手が自分の周囲に残ります。必要としながら相手をさげすむアンビバレンツな状態が日常化します。

感情的な行動にも、言葉で表現する場合がありますが、言葉で理解してもらうことをしないで、どちらかというと態度が主で、そのどさくさで言葉を使うだけのもの。つまり感情の勢いに言葉を載せるのです。

感情の勢いに任せるには、感情の高まりを待つ必要があります。つまり我慢を続けてヒートアップさせますが、それまでの時間、その片付いていない問題が続いているとは限りません。つまり沸点に達するまで、ずっと同じことを繰り返し考えてヒートアップさせているのです。

この状態を他者が気づいたら、「まだ、あのことを考えているの?」と呆れることも少なくないのはそのためです。
この間、本来できることには手をつけられません。あるいはうわの空で取り組むので効率が悪く成果もパッとしません。その手直しに余計な時間が費やされます。他者が眠っている間も働いているというようなことが起こってきます。心身に疲労は高まりますが、報われることはなにもないのです。不満と怒りが蓄積されていきます。

こんな手のかかることをするのは、言葉で表現できないからです。恥ずかしい、悪い、自分にそんな要求する資格がないなど、負のイメージが強いからです。負のイメージを強めているのは不満と怒りです。

自己否定感が強いのに、他者に対する否定感も強い。その一方で他者には叶わないという気持ちがあります。他者に対して肯定感情と否定感情があり、相手によって使い分けることでバランスをとります。
自分が考えた強者にはへつらい、弱者には高飛車になります。アサーティブでいう対等、自己責任を自らの誤った判断で破壊し、率直、誠実は誤った責任感によって葬り去られます。

「できませんJ「助けてください」「私はこうしたい」と声に出すことは、誰にも許されている人権なのです。
問題はこの判断を間違ったことから始まっていて、そのサインがそのときどきの心の動きや感情を言葉で表現しないことなのです。

言葉に出すのです。
出せるヒントをお伝えしましょう。

もし、あなたが誰かを好きになって、その人を幸福にしたいと思って、自分の気持ちを告白するのと、恥ずかしさや不安から自分の気持ちを告白しないとしたら、どちらを選びますか?

その選択を分けるのは、プライドだと思うのです。
プライドの中味は、主体性つまり責任を引き受ける勇気です。
幸福にしたいのかされたいのか、選択と判断のポイントはそこです。
責任を引き受ける勇気がないときには、黙って黙々と自信がつくように力を育みましょう。幸福にしたいと思うなら声に出しましょう。

これはすべてに通じることです。家族、友人、顧客、上司・部下とのコミュニケーションでも同じです。だかた人のことを人間という。会話のコツは「傾聴」と言われるのも、そこに理由があります。



相手の喜びを自分の喜びのように感じ扱うこと、そこから自分の喜びが相手にも自分の喜びのように感じて扱ってもらえる関係が生まれる。それをあなたが理解した後でも、感情を素直に言葉で表すことが出来ない場合があります。

感情を言葉で伝えることによって起こる相手の反応が怖くて、まだ表現できなかったとしても、それを恥じることはありません。まだ恐ろしいと思っても不思議ではないし、それならそれでいいのです。

もっと考え抜くと、なぜなのか理解を深めるはずです。それから始めてもいいのです。お互いの感情をお互いに表現することが、脅威でなく安心なことだと感じてからでいいのです。

但し、何も新しい感情が芽生えてこないとしたら、注意が必要です。越えるべき障害を越える努力をしていない証しだからです。楽しい暮らしを手にするために、越えるべき障害があることを忘れないでください。越えようとしていたら必ず何らかの未体験の感情が芽生えてきます。それはサインです。そのサインがどのような形をしていても、たとえば喜びであったり、恐れであったりしても、気にすることはありません。どのようなものであれ、新しい感情は変化を求める証しなのです。

なぜなら、新しい感情は、感情を麻痺させる習慣からの克服を求める感情だからです。
そこでなんのために感情を麻痺させる必要があるのかと不思議がるかも知れない。しかし、それは不思議ではなく、心身を守るために、無意識の内に自分の感情に気づかないようにしてきたからなのです。もし、あなたが感情を持ったとして、それがことごとく裏切られただけでなく、恐怖、不安、挫折、絶望を感じたとしたら、感情に目をそむけるようになったとしても、苦肉の策であって当然なのです。

そろそろ、感情を言葉で伝える不安について、理解が進んだかも知れませんね。
虐待の経験は、受けていても受けていないと思い込んでいる人が少なくありません。同じくアルコール依存症者の家庭で育ったにもかかわらず、アルコール依存症者はいなかったと思い込んでいる人も少なくありません。

それを認識することは、克服の手助けになることも少なくないのですが、成人したいま、すでに終わったことである場合には認識できないのなら無理にしなくてもいいと思います。問題は感情を言葉で表現することに不安があるのか、ないのか。あるなら克服を意識しましょう。

2011年10月31日月曜日

「あの人とうまく会話できないのはどうして?

 誰かとと話をしているとき、沈黙が続いて居心地が悪くなり、緊張が高まったり、会話がちぐはぐだなと感じなんとなくバツが悪くなったり、好きな人と話ができるチャンスなのに、なぜかうまく話ができなかったという経験をしたことはありませんか?sの上、好きになった経験はあっても、なぜだか特別に話せない相手がいたり。。。会話は日常のことなのに、日常でない出来事が起こるところに人の不思議があります。
?
会話上手でなくても、いつも自然体で話せるようになるには、どうすればいいのでしょうか。 そのヒントになるのが普段から親しい人と話をしているときのことです。何か違うところはないか、思い出してみてください。

まず親しい人との間では、心が通っています。 つまり、どのようにコミュニケーションしていいのか、わからないとは、心を通じ合わせる方法が分からないというように置き換えることもできます。
では、心を通じ合わせるせには、どうすればいいのでしょうか?

相手の訴をよく聞いて、さらに相手の話を引き出す山すような反応をする、そんなやりとりの結果、いい空気が流れて、自然と自分も乗っていけるようになるものです。 その瞬間に心が開いて、初めて心が通じるのです。




<親の心と、こどもの心、親しみのあるコミュニケーションの典型的なパターン>

要するに会話上手とは、自分もリラyクスして話ができるだけでなく、相手にも気持ちよく話をしてもらえる状況を作れる人なのです。つまり、あなたが望んでいることを相手も望んでいるのです。
言い変えると話し上手と思える人は、あなたがしていない努力をしている人だとも言えるわけです。違いはなにかと言うと、橋を渡る人と橋の手前で躊躇する人の差、落ちたときのリスクを引き受けて進む人と、リスクを引き受けない人の違いなのです。

ボキャブラリーに富んだ話し方で、どんどん相手を引き込んでいくことも大事でしょう。それはそれでコミュニケーションのスキルといえるでしょう。 しかし、たくさんの言葉を並べればいいというわけではありません。むしろ、会話上手な人は「聞き上手」なのです。あなたがそうされたらうれしいように、一生懸命聞いてくれることが会話上手になる基本なのです。


親しい人と話していると、聴く、話すという会話の内容だけでなく、態度・動作も違うはずです。心が開いているので、身体全体で会話しているのです。

・そのときの感情が違います。
・姿勢が違います。
・手や足の位置が違います。
・動作が違います。
・話し方のリスムが違います。
・話すトーンが違います。
・考え方・価値観に偽りがありません。(あるいは少ない)
・話の内容が違います。
・お互いのペースのバランスがいい。

そして、相手のことに心から興味を持ち、自然なと相槌をうっているはずです。
質問もざっくばらんに投げかけていると思います。

このような状態を初めて会った瞬間から作っている人がいます。もう何年も前からの知り合いのように話しかけてきます。しかも質問が多く話しやすい状態を作っています。オープンになって心が通じてくるから通じるのです。
「馴れ馴れしい」という見方もありますが、節度は行動の「境界」できちんと保っています。

「傾聴」という言葉があります。傾聴とは相手の話を熱心に聴くことではありません。相手が話していることを通じて、相手の気持ちになって追体験することなのです。たったそれだけのことですが、スマホを使いながら歩くながら上の空生活に慣れてしまうと、真摯に向き合う力は減退するばかりです。相手の気持ちになって追体験できるボキャブラリーを養うには、まずもって人間への興味を強く意識することです。そうすると「傾聴」は意外と簡単にできるようになると思います。

コミュニケーションは技術の問題ですが、心理的な問題が絡んでいることは少なくないものです。その場合には、技術だけでないメンタル面の解決が必要になりますが、こちらの問題は自身がどのようにしてトリッキーな仕掛けにハマって現在に至ったのか、その仕組みを理解、つまり気づきを起こすことが必要です。性格の問題ではなく、何かに起因した因果関係の末に自身が思い違いをしてしまっているのです。

つまり、会話が上手になりたいという課題は、単なる技術の問題、あるいはメンタルな問題、どちらの場合も「変える」という意識を持てば変われる課題なのです。