2010年12月26日日曜日

ネガティブイメージを強化するラケット

アンビバレンスに強い影響を与え、人間関係をこじらせるだけでなく、自己実現の妨害をしている正体「ラケット」についてお話しましょう。

幼児は無力な存在で、親、保護者の愛情と保護なしには生きていけません。切羽詰まった状況に置かれた幼児は、愛情と保護を得るためには愛想笑いもします。親、保護者が思う以上に彼らは不安を抱いているのです。

無力な幼児たちが自分の欲求を満たす手段として使うのが「ラケット」という手法です。「もしボクが悲しそうにしていると保護する立場にある人は、考えを改めて言うことを受け入れてくれるかも知れない」といった思いで使います。

親たちは、もう仕方がないね」という思いから、イライラしながらも欲求を満たす、代わりにやってやるなど、幼児の思いに応えます。不快な表情や態度は魔法のおまじないのような役割を果たすのです。

幼児はこれが武器になることを体験で学び、なかなか手放そうとしなくなります。
つまり困らせることで、願望は実現されることを憶えます。

この手法を成人しても使うようになります。困らせることは、自分にとって大切な人の気を引き、支配するを手段になると思い込んでいるのです。つまり甘えているのです。

しかし仲のいいカップルが甘えあうのは、お互いの無邪気な気持ちによるポジティブな性質のものですが、困らせて気を引く方法はネガティブな感情に支配されたマイナスの交流です。

異性への不信があると、第三者の異性に対して、執拗に愛情の確証を得るために、ラケットの手法を使い、マイナスの交流で見極めようとします。相手を責めながら気を引くというやり方、引き裂かれた相反する自己が同時に表面に出ることが繰り返し続くと相手は疲弊してきます。ストレスが高じて神経症の範囲に入ることもあります。心身の危機に直面すると相手は離別を選択するしか方法がないのです。

結局、見捨てられることになります。本人のアンビバレンスな状態のネガティブな面が反映されたものです。

このようなやり方には愛情の希求が潜んでいますが、「自傷行為」と同じ気の引き方です。ネガティブな感情に支配されたマイナスの交流と同じです。

よく考えたいのは、ひとつのことに、ポジティブな面とネガティブな面の両面が生じるというのは、ポジティブな面への希求が強いからです。そこに本当の自分が存在しているのです。それを>ネガティブな感情や考えで抑圧するから自分も相手もどうしていいのか分からなくなるのです。

誰でも不安があるので、ひとつのことでアンビバレンスな状態になります。不安に対峙することになりますが、自分の欲求を優先するように努めます。行動することで現実に身を置くことができます。

一方、自分のあり方に悩んでいる方は、ほとんどがアンビバレンスな状態に悩むばかりで行動が見受けられません。停滞が悩みの本質になっているのです。かっての武器として有効だったラケット、自分が壁を見て不機嫌にしていたら誰かが反省をして助けてくれる。は機能しないのです。

大人となったいまでは(広義の)自傷行為で他者をコントロールすることはできないのです。一刻も早くラケットを捨て、選択と集中に自分を投げ込むことが、自分を生かす方法なのです。それは、いきなりということでなく、ゆっくり少しずつ、少しずつ、安心を確認しながら始めていけばいいのです。

自己実現の妨害するアンビバレンス

自己実現の妨害をしているものについてお話しましょう。

テレビが特にそうですが、一度持ち上げたタレントがなにか不祥事を起こすと、嘘のように一転して、今度はよってたかって引き下げにかかるということがよく起こります。これはメディアの心理というより一般に見受けられる人間の心理なのです。

このような心理の背景には、アンビバレンスの問題があります。アンビバレンス(ambivalence)とは、「両価感情」「両面価値」「両価性」とも表現されますが、相反する考え、感情が無意識の存在することをいいます。
好きだけれどキライ。行きたいけれど行きたくない。食べたいけれど食べたくない。
指示に従いたいが、従いたくない。話したいけど、話したくない、というようにひとつのことに正反対の感情を持ってしまうことです。複雑な気持ちの裏には不安が潜んでいます。表現を変えるとポジティブ、ネガティブというように受け止め方が違ってしまう原因なのです。

自分の気持ちが未処理のまま、行動をすると相反する感情が湧いてきて行動していても葛藤が続くことがあります。すっきりとした行動と集中には、アンビバレンスの問題をクリアしておく必要があります。

しかし、人生早期にネガティブ体験をした人にとって、欲求に忠実に行動することは危険を感じることが少なくありません。
自分の行動に対する責任を引き受ける勇気が不足しているのですが、体験と共に痛みと不信がしみ込んでいるのはムリもありません。幼児にとってもっとも重要なのは、名誉でも財産でもありません。愛情と保護です。幼少期になんらかの理由で愛情と保護の不足を感じたした場合、臆病になるのは仕方がないことなのです。アンビバレンスは、その仕方なさから生じてきます。

物心がついてきた頃に父親との離別があると、異性不信と共に、子供特有の万能感が裏目に出て、自分のせいで離別が起こったと感じてしまい、時には強いトラウマになることも珍しくはありません。
成人しても、異性の誠実な好意と対峙することになっても、なにか裏があるのでないかとか、いずれ突然離れてしまうのではないかと不安がよぎります。

そこでそこでアンビバレンスが生じて、はっきりとした確信が得られるまでは、率直な態度は見せないというように頑なに繰り返し確証を求めるようになります。ネガティブな面からのアプローチになるので、「好きだけど」は隠されてしまい、「好きじゃない」が表に出できます。デートに誘われても、「行きたい」は隠されて「行きたくない」が意識されます。しかしいくら隠しても、気持ちはあるので抑圧され、抑圧が不十分だと、反動形成という形をとって抑圧しようとします。

反動形成とは、まったく反対の表現をすることです。抑圧が抑え込むだけなのに、対して反動形成は積極的に反対の態度や意見を表現するようになります。相手は表現されたことを真に受け止めるか、混乱します。コミュニケーションは、言葉だけでなく態度、表情などボディランゲージも含めて行われているからです。それらに一貫性がないので混乱するのです。

好きな人を困らせて内心喜んでいるのは、注目されることがうれしいわけで、そこには愛情の希求が存在しています。しかし相手が誠実に受け止めて反応したからといって改善されないのは、アンビバレンスから脱することができないからです。
ですから、その場にふさわしくないコミュニケーションが続くことに対して、助けてくれと言っている声が聴こえるような気がしても不思議ではないのです。

しかし、どのような深い愛情を持ってしても助けることはできません。人は他者を変えることは出来ないからです。それはいい意味でも、残念な意味でも「境界」があるからです。私はあなたではない。あなたは私ではない。だからこそ愛することが尊いといえます。

この境界を冒涜していると、最近のむごい事件に発展します。自分の思い通りにならないと暴力で思い通りにしようとする、簡単に殺してしまう、というのはその典型なのです。

誠実であればあるほど「境界」の前で苦悩することになるでしょう。つらくても悲しくても、仕方がないのです。そこでなにができるか、ひとつだけ残された道が「影響を与える」ことです。

アンビバレンスな行動は相手を混乱させるだけでなく時間、エネルギーを無意味に使い果たし疲弊させます。そこまで熱中することは、熱中する側にも「共依存」の危険が潜んでいます。限度を越えると「共倒れ」になります。健康な精神の持ち主なら、変化の起こらないことに見切りをつけて離別を余儀なくされます。

その結果、異性不信は強化されてしまいます。そして痛みから抜け出そうとして、別の異性と関わろうとします。結果は同じで悪循環が起こります。ただ繰り返されるだけでなくますます悪化します。しかも繰り返すほど安易な関わりになるので異性のレベルも低下していきます。

アンビバレンスを考慮するとき、ポジティブな意思がなければ迷うことはありません。ポジティブな意思があるからネガティブな感情に振り回されるのです。問題は
ポジティブな意思に見合う行動をした場合の責任を自分が引き受ける勇気です。これはビジネスでいうリスクがなければリターンもないと同じです。リスクをどのようにマネジメントするか、それが知恵なのです。

ビジネスと違い、その知恵が裏目に出ます。異性との関係では、他者を動かす企みでほとんどの場合、成功しています。つまり混乱によって支配することに成功してしまうのです。

しかし共依存でない場合は先に言ったように時間、エネルギー、時にはお金までも無意味に使い果たし疲弊させて、離別に向かわせます。共依存の場合には共倒れになります。

どちらにしても、最後には自己否定感と孤独感が待っています。これが悪循環の始まりになりますが、どれだけ循環しても自己否定感と孤独感から逃げることは出来ません。同時に自己実現の妨げになっていて、たった一度の人生を無駄に使ってしまいます。

では、何度失敗しても、懲りずに繰り返す、悪循環の背景にある幼児期からの手法について説明しましょう。

2010年12月24日金曜日

運命脚本が自分を縛っている

コミュニケーションに常に影響する基本的な4つの人間関係の構えには、以下のパターンがあります。

・自分はOK,他人もOK(自己肯定、他者肯定)
・自分はOK,他人はNO(自己肯定、他者否定)
・自分はNO,他人はOK(自己否定、他者肯定)
・自分はNO,他人もNO(自己否定、他者否定)

このうちのどれがあなたのパターンになっているでしょうか?
否定があると、人間関係が難しいと感じています。

否定的な構えがあると、次のようなパーソナリティになって表出することがあります。

・依存的パーソナリティ
・強迫的パーソナリティ
・支配的パーソナリティ

いずれも平行的コミュニケーションが苦手です。
日常的に交叉的、表面は平行的な仮面的コミュニケーションをやってしまう可能性が高くなります。

・平行的コミュニケーション
・交叉的コミュニケーション
・仮面的コミュニケーション

この3つのパターンは状況で使い分けていますが、人によって、傾向的に平行的コミュニケーションが多い人と、交叉的コミュニケーションの多い人がいます。

平行的コミュニケーションとは、相手と衝突しない交流です。
交叉的コミュニケーションとは、相手と衝突する交流です。
仮面的コミュニケーションとは、表面的には平行を保っていても、裏では交叉しているというように表と裏のある交流パターンです。

交流パターンも、パーソナリティパターンも、人間関係の構えが表面化したものです。

交流パターンも、パーソナリティパターンも、それがどれであっても、小さな不快感、苛立ち、傷つきはあるものの、いますぐ大きなダメージを受けることも与えることもないでしょう。

しかし、確実に自分の人生を形づくっていることは間違いありません。

それは、運命脚本としっかり結びついているからです。

・自分はOK,他人もOK(自己肯定、他者肯定)
・自分はOK,他人はNO(自己肯定、他者否定)
・自分はNO,他人はOK(自己否定、他者肯定)
・自分はNO,他人もNO(自己否定、他者否定)

の構えを取るようになった原因、つまり未解決の問題を処理方法を間違えているので、ネガティブな方法をとらざるを得ない。そのために用意したのが、自分の一生のすべてを賭けた「運命脚本」なのです。

たとえば「ラポ」には、最も多いのは父親との関係で傷ついた女の子の孤独と苦悩があります。人生初期に体験した根深い男性不信が隠されています。母親との関係性で不信も取り除けますが、父親が離れた原因はほとんどの場合、母親との関係によるものなので、母親の女性性にも問題があります。

男性不信は父親恋しの反動形成なのです。しかし自覚することはなく、男性の甘い誘いには裏があると考えます。誠実に接しても信用しません。やがて男性を支配するようになります。求愛段階になると、やっぱりそうだと極端な発想に支配されて
拒絶します。信用できる相手と分っていても、受け入れることができないのです。

これが繰り返されると、将来家庭を持っても、円満な家庭を築けませんので、結果的に、父親との関係で傷ついた女の子の孤独と苦悩する状態が、ふたたび訪れます。
これこそが「人生の目的」になっているのです。それが運命脚本です。

本当なら、また意識の上では、「苦労した分、温かい家庭を作りたい」と願うものです。本人もそのようなことを言葉にします。しかし問題が解決できていないと、言ってることと行動が真逆になってしまうのです。

しかし不思議なことに、このような女性には、未解決の問題を解決に導くような男性が現れます。受け入れるか、拒絶するか、本人の選択次第なのです。適切な見極めができるように、自分が自分と向かい合い、自分を知っておくことが重要なのです。どんなに着飾って美人だね、カッコいいねって言われていても、自分の幸福に役立つのは、苦しいことがあっても磨き上げた内側の力なのです。

パーソナリティ障害ってナニ?

ますます人の命を軽視した事件が増加の一途だ。この国の人はおかしくなってきていることは明白だ。自分のことに過度にこだわる人が増えていて、いっぽうで他者への共感が薄れる傾向が顕著だ。

自分の思い通りにならない人はどうでもいい存在として扱うことに抵抗が少なくなっている。その他者は自分と別の感情、意志、考えを持った存在であることを認識できないということだ。それが人間であっても動物であっても、自分の思い通りになる存在だけを愛し、思い通りにならない存在は敵と見なすという極めて理不尽で、不気味な思考パターンに陥った人が増えているのだ。いわゆる「パーソナリティ障害(Personality disorder)」だ。

パーソナリティ障害は、「病的な個性」または「自我の形成不全」の状態を言う。精神疾患のひとつに含まれるが、健全者として通常に仕事に就き、優れた功績を残している人は後を絶たない。その特徴は、その他の精神疾患と比べて、慢性的であり全体としての症状が長期に渡り変化しない点にある。しかし神経症なども治癒するまでに数十年の歳月を要するケースもあり、その辺りの判別も難しい。

パーソナリティ障害には、最近増加が著しい自己愛性パーソナリティ障害をはじめ、次のパターンがあります。

クラスターA
自閉的で妄想を持ちやすく奇異で閉じこもりがちな性質を持つ。
・妄想性パーソナリティ障害
・統合失調型パーソナリティ障害
・統合失調質(シグイド型)パーソナリティ障害

クラスターB
感情の混乱が激しく演技的で情緒的なのが特徴的。
・境界性パーソナリティ障害
・演技性パーソナリティ障害
・反社会性パーソナリティ障害
・自己愛性パーソナリティ障害

クラスターC
不安や恐怖心が強い性質。周りの評価が気になりそれがストレスとなる性向がある。
・回避性パーソナリティ障害
・依存性パーソナリティ障害
・強迫性パーソナリティ障害

「パーソナリティ障害」によるあきれた事件は、マスコミが騒ぐ対象だけではない。もっと身近にもっと数多くの理不尽が繰り返されているのだ。

理不尽を行う人には、それなりの背景があり、彼、彼女らもかっての犠牲者である場合が少なくない。その痛みはどのようにして生じたのか、それを知り、彼、彼女らの痛みを分かち合うことをしない限り、パーソナリティ障害をもった人を救うことはできない。
それは簡単にできることではなく、何の知識も持たない人が善意で取り組んでも逆に事態を悪くしてしまうだけの方が多い。

そういう自分も最近、交流分析で言う「ラポ」にはまってしまい、後になってしまったと思ったばかりである。しかし、私はそれを恥じること、さもしいとも思っていない。自分にはしっかりとした行動基準があり、私は私の魂の指揮官として、感情はほぼ完全にコントロールできていて、常に客観視していた。それでもクライマックを想像する点で落度があり、助けることができないばかりか、むしろ強化させる結果になったのではないと口惜しい思いをしたばかりだ。

パーソナリティ障害について、そのプロフェッショナルでさえ、十分な処置ができない状態であり、医療体制も整っていない。唯一に近い状態で「躁鬱病」が薬を出してもらえるような状態である。しかしいまや「パーソナリティ障害」を放置できる状態ではないのだ。

対策の最初の一歩は、まず自分を知ることです。ライフスキルのひとつ自己認識スキルに磨きをかけて、そして次に相手を知ることです。
そもそも「パーソナリティ障害」はなぜ起こるのかについて考えてみましょう。

それには親子の関係について、認識を改めることから始めなければなりません。
そこで、まず子育てのマイルストーンを説明します。ここで注意してほしいのは、それぞれの時期が、バラバラに完了しているのではなく、因果関係でつながっっている点です。

■0歳~5ヶ月 安心認識の時期

 最初の時期の目的は、守られている安心感の内に環境に慣れさせてあげることです。ですからお母さんの守ってあげるやさしい気持ちが大切です。言葉が分からない赤ちゃんとスキンシップで気持ちを伝えていきます。

 この時期の乳児は環境に慣れていく時期です。生まれたばかりの乳児にとっては五感から入ってくるすべてが不安です。母親の保護が頼りの時期で、母親の心からの愛情で、しっかりやさしく抱いてあげることが最大の対策です。

この時期に不安を与えると、環境順応に時間がかかるこどもに育ちます。保護者の五感への配慮が大切です。幼児が不安がるのは止められません。不安の材料を親が取り除いてあげることが親の自立です。

■5ヶ月~10ヶ月 

親離れの芽生えの時期です。
寝てばかりいた乳児が、ハイハイするようになります。

この時期の目的は、環境に対して安全、安心の内に行動で確認させて慣れさせてあげることです。

 幼児には、すべてが「不思議」の対象です。好奇心が旺盛で、触って確かめようとします。危険を心配して、触らないように注意しますが、本人の自由意志を阻害する注意の仕方は好ましくありません。触らない注意をするより、置かない注意をしてあげることが大切です。

 実は、これができるのが自立した親の特徴です。つまり相手を変えることはできないが、自分を変えることはできる。相手をコントロールせずに自分をコントロールします。こどもに注意するより、自分が注意することで、危険を除いておきます。

この時期から、躾の準備をします。躾は親に従うのが基本です。

■10ヶ月~18ヶ月 躾で行動の制約を教える

 ハイハイからヨチヨチへ。行動範囲が広がり、こどもの世界は一気に拡大しますが、同時に危険も増えます。

■18ヶ月~5歳の時期  

こどもの基礎が作られる躾の時期です。

この時期の目的は、制約を教えるために、しつけによって、自分がアクションすれば何でも叶うという万能感をゆっくり排除します。

 育てやすい、自律できるこどもに育てるには、この時期に制約を教えて、自分の限界を教えておくことが肝心です。自分と他者は違う、人と人の間には境界があることを感じさせます。こどもを否定するのではなく、していいこと、してはいけないことをきちんと教えます。

 たとえば、親を叩いたりしますが、「痛い、そんなことをしてはダメ」と教えます。怒るのではなく、落ち着いた態度、表情で、真正面から言葉、表情、態度が矛盾しないしっかりとしたコミュニケーションをします。

かわいいからと、まだなにもわからないからと甘やかすと、万能感を持ったまま、制約も限界も知らない無軌道な大人になる可能性が潜んでいます。まだなにもわからないからきちんと教えておくのです。こどもは小さいときに教えておくほど、手間も労力も費用もかかりません。

 この時期に教えておかずに、3歳~5歳の時期に教えようとしても、こどもも万能感を手放そうとしなくなり、わがままを主張するので、何倍もの労力がかかります。


■3歳~5歳 

親を真似る時期

男の子はお父さんの真似を、女の子はお母さんの真似をします。

この時期の目的は、情緒の安定です。それには父親・母親との間のバランスのとれたコミュニケーションが必要です。夫婦が力を合せて、厳格な父の心、保護的な母の心をしっかり教えるようにします。

 「三つの心」でお話したように、親の心には厳格な父の心、保護的な母の心があります。こどもたちは親の真似をしながら、親の心も学んでいきます。

厳格な父の心からは、自分を抑制する力を身に着けます。母親の保護的な心からは自然な自分を身につけます。

この時期に、お父さんと接する機会が少ないと、厳格な父の心が身につかなくなり、やりたい放題になります。その分、お母さんがお父さんの役割をこなそうとして母性的な気持ちを抑圧すると、こどもは受容されていないと感じて、不安になります。両親の愛情ある関わりが必要な時なので、忙しくてもお父さんの育児参加を計画的に実行します。

それが不可能な場合は、母性的な気持ちを抑圧せずに受け入れていることをたっぷり伝えながら、お父さんの役割を果たすようにしてください。

 結婚した後、厳しく支配的な妻になる女性がいます。しかし他者に対しては気がひけて主張ができないというアンバランスぶりで、これが同一人物かと目を疑うような人です。

このような自立できない依存体質は、この時期に、お父さんと接する機会が少ない、あるいはお母さんの言いなりになっていたお父さんしか知らないのが原因です。父親から自律することを学んでいないのです。

 また、この時期、言うことを聞かないと、叱り飛ばす親を見かけますが、効果はありません。自律が身についていないので、聞いたふりをしているだけがほとんどです。注意しても効果がないのでイライラするし、一層激しく感情的に叱りますが、そんなことにならないように、「10ヶ月~18ヶ月」の時期にしっかりしつけておきます。

学業は、小さいときに習慣化させておくと、大きくなったときも楽です。親の真似をするこの時期は、親も熱心に勉強し、スポーツするようにします。またボランティア活動に親が参加することも大切です。こどもの前での夫婦ゲンカや、テレビを見てごろ寝するようなことはやめてください。


■5歳~12歳 

境界を認識する時期

「自立」を教え、自然に「自立」を受け入れさせるのが目的の時期です。

この時期には、自分と他者は違うことを教えます。その教え方は自分のことは自分でさせる。こどもが助けを求めないのに助けを出さないことが肝心です。

実は、こどもが助けを求めないのに助けを出してしまって子育てに失敗している親が多いのです。たとえば、学校から帰ってきたこどもに勉強しなさいと言うのが、それです。寝る前に歯を磨きなさいと言うのもそれです。

親がこどもの行動に関わると、自分と親は他者とは思えなくなります。自分のことは自分がしなくても親がしてくれると思います。何もしなかったら親が言うだろうと考えるようになります。これでは万能感が断ち切れません。

この習慣が大人になっても続き、会社に行けば、用があれば上司が言うだろう、家庭に帰れば、嫁がするだろうと考えます。自分と他者の境界がない依存体質がすっかりしみこんだ人間になります。

この時期に徹底して教えるべきは、自分のことは自分でする、助けが必要ならはっきり自分で助けを求める意思表示をさせます。

自分のことは自分にさせるには、自分の計画は自分で立てさせて、実行させることです。親は、結果だけでなく、それ以上に様子(プロセス)を見てあげるようにします。

■12歳~18歳 

親離れの時期

 この時期の目的は選択と行動と結果の因果関係を理解させ、最適な結果が出せるように計画性のある行動ができるようにさせることです。

この時期は、境界の認識を深めさせることです。よくある「いい学校に入る」は親の問題でなく本人の問題です。本人が考えて選択~行動できるように育てていく。それが自立のプロセスです。

自分の行動と結果の因果関係と自己責任が理解できるようにします。自分の選択と行動の結果への理解、選択は自分がしている認識を深めます。

その方法は、5歳~12歳の頃とは格段に違います。5歳~12歳の頃は強く言えば説得力もありましたが、この時期は反発するようになります。感情的な対応はますます混乱に誘うだけで、きちんと伝えたらきっと分かると強い信念のもと、穏やかで確信に満ちたコミュニケーションが功を奏します。

 「勉強しないとついていけなくなるよ」と勉強を催促しても、こどもは「大丈夫」と返事します。親にしたら、「大丈夫でない」と言いたいのですが、否定は口論になるだけで互いに感情的になるだけです。まず信じます。「それなら約束してください。今度の試験の点数が80点以下だったら、外出禁止にしますよ。いいですね」と感情的にならず毅然と落ち着いた口調で話します。

 もし80点以下なら、約束した通りにします。自由は良識と良心でできていることを教えます。責任をとれないようなら自由を語る資格がないことを教えます。

それでも、次回も同じようなことになるかも知れません。しかし大事なことは、親の言うことに言いなりに従わせるのではなく、因果関係を自分でマスターすることです。また同じ約束をします。

小さいときに学習を習慣化させておくと、大きくなったときに学業も楽です。
以上、0歳から18歳までの子育てのマイルストーンの概要を説明しました。

ここで注意したいのは、親と子供では全然立場が違うということです。

親は子育ては全体的があると信じ込んでいますが、幼児期のこどもには単一のもので、つまり一回、一回の関係でしかないのです。幼児が持つ一回一回の欲求を満たす人が幼児にとっての良い人であり、満たさない人が悪い人なのです。ですから朝の幼児の欲求が一度あって、それを満たした親はいい人ですが、昼に幼児の欲求があり、それを満たさなかった人は良くない人なのです。そこで親、保護者に一貫性がないと幼児は安心感を持てなくなってしまうのです。思い通りにならないと「悪」、思い通りになると「善」というように認識していくのです。

しかし、現代の親は、ケータイや美容など、自分に関心があることが多いので、こどもの一回、一回の欲求に充分応えていない場合が多いにもかかわらず、全体的にケアしていることで、十分なケアをしていると思い込んでいる側面があります。

このための人生早期に親に対して不信感を持ってしまい、「白黒思考」が強くインプットされてしまうのです。

その上、離婚などによって親がストレスを抱えた状態で、3歳~5歳 親を真似る時期を迎えることになると、子供は不安を覚えることになります。

さらに5歳~12歳の境界を覚える時期に、外部環境との接触を通じて、3歳~5歳の時期に生じた不安が強化されることになり、パーソナリティ障害が生じてくるのです。

親子の関係は、弱愛でも、無関心でも問題があり、終始「バランス」が問われいています。バランスが悪いと不安が強化されてしまいます。私もOK,あなたもOKというように互いに尊重して人権を大切にできる自他尊重のあり方は、自分を愛せる能力が出発点です。自分を愛する能力が不足している状態、つまり不安が自己愛にこだわる自分を作り出し、他者への関心にまで気が及ばないパーソナリティ障害者にしてしまうのです。

特に母娘の関係は干渉が強く、成人しても娘は干渉を受け続けます。母親がパーソナリティ障害があった場合、娘は息苦しさの原因が分らないまま、受け継ぐことになり、それが子供に影響するということが起こっています。パーソナリティ障害は広がる一方になり、最初にあげたような問題が増え続ける状態になっているのです。

パーソナリティ障害から脱するには、パーソナリティ障害のそれぞれ各タイプにふさわしい対策を打ちます。

2010年12月2日木曜日

忙しくても自由な時間がとれる方法

「忙しすぎて、自由な時間がとれない」
時間が足りないと話す女性はたくさんいます。

それはそうだとしても、昭和の高度成長期前、つまり洗濯機も冷蔵庫もクーラーもないのが当たり前の時代のおかあさんだって店の切り盛りをしながら、子育て、家事、仕事にフル回転していました。

こういう比較はお好きでないかも知れないが、それと比べると忙しいというより、やることが多すぎないか、チェックしてみましょう。

しなくていいことをしていないか。

本当に必要なことがなにで、不要なことはなにか、誰かが仕掛けたコマーシャルベースで考えずに、自分に本当に必要な暮らしの視点で見直すのです。

「急いでいることは、忙しい人に頼め」と言います。普通は反対に思うことがそうではないのには、ちゃんと理由があります。

忙しい人は時間の使い方がうまいのです。物事の取捨選択も迅速で的確です。暇な人はダラダラと遅いので仕事が入ってこないのです。集中力の違いの差なのです。

よくケータイのメールを見ながら、 通行人にぶつかったりしながら 歩いている人がいます。このような人は時間の使い方が悪い人ではないでしょうか?

いまこの瞬間に集中したほうがはるかにミスもなく効率がいいものです。時間の観念がないから思いつきで気になることをこなす状態が段取りをしていないといことではないでしょうか?

感情の赴くままに行動していると、本当の瑞々しい感情が停滞して淀んでしまいます。

時間が不足する暮らし方には、大事なことを忘れている可能性のあることに注意してみましょう。
高度成長期前のおかあさんが大事にしていたものを見失っていないか、注意が必要です。

自分と周りの人の人生を豊かなものにするには、感情がコントロールできて、自立性が担保できている必要があります。

子育てに悩むお母さんが多い理由には、忙しくてイライラして、いまこの瞬間に集中できない散漫さが影響しています。

忙しくイライラした状態で、心の通ったスキンシップできるでしょうか?

衣食住が満たされている現代ではスキンシップの不足が目立っています。豊かな感情の交流が、多忙だからこそ、自分を振り返って、その大切さを知る機会なのです。

本当に必要なこと、不必要なことを整理する基準に「豊かな感情の交流につながることか、そうでないか」を選ぶことはすてきなことではないでしょうか?

2010年8月14日土曜日

99日間プロジェクトはどのように行いますか?

まず最初にこの図をご覧ください。



これは「夢実現手帳相関図」であり、「99日間プロジェクト」の概念図です。
「生きる目的」「夢」「クレド(行動基準)」そして実行ツールとして「手帳」「日記」「メモ」があります。

99日間プロジェクトは、ご自分で「マイプロジェクト」として取り組んでいただく習慣をつけるきっかけにするものです。「99日間プロジェクト」では、夢、自己実現をする方法をサポートします。取り組む段階の状態が個人差があるので、みなさん同じではありませんが、以下のような内容です。

「99日間プロジェクト」に限らず、多少違いはあっても、夢を実現する普遍的な手順をご案内します。

まず最初に生きる目的を認識していただきます。実はこれこそが「ライフスキル講座」の目的でもあります。つまりライフスキルが身につくとは、「生きる目的」がしっかりと持てるということです。そして生きる目的を達成するために、手段、道具として「夢」があるということです。

ですから夢が実現しなかったとしても、そのプロセスでライフスキルが身についていくので、幸福感の点でなんら劣ることはありません。ですから最初に生きる目的を認識しておくことはとても重要なのです。生きる目的が決まれば始めます。

1番目にすることは、夢あるいは自己実現したいテーマを期限付きで設定します。
それを「夢ノート」に書き込みます。

2番目に、生きる目的を具体的に落とし込んだクレド(行動基準)を策定します。ライフスキル講座では、7つのゴールデンルールをピックアップしています。これを行動基準として参考にしてください。クレドも「夢ノート」の一部を使って、そこに書き込みます。

【7つのゴールデンルール】

●自分と周囲の人を尊重し励ます
 コミュニケーションスキル (効果的コミュニケーション ・対人関係)

● プロセスに注目する  自己認識スキル(自己認識・共感性)

● 決めたことは責任をとる  意志決定スキル(意志決定・問題解決)

● できるまでやる 意志決定スキル(意志決定・問題解決)

● いまこの瞬間に集中する 意志決定スキル(意志決定・問題解決)

● 理想と現実の差をうめる目標を選ぶ
 目標設定スキル(創造的思考・批判的思考)

● 感情的な行動をしない ストレスマネジメントスキル (感情対処・ストレス対
処)

さて、夢をどのようなスタイル(ゴールデンルール、クレド、行動基準)で実現するかが決まると、「生きる目的」を達成する方法と期日が決まったことを意味します。

これを今度は、脱線することなく、より具体的に実行できるように、期限も設けたスケジュールを策定します。ここで手帳を使って分かりやすくします。

期限を設けたスケジュールは、夢の実現日をゴールにして逆算すると策定できます。
分かりやすくするため簡単な事例でご案内します。
ビジネス英語に必要な英単語は約3000語と言われていますが、これを1年365日でマスターするには、1日約8.2語マスターすると到達できます、

今日から丁度1年後に達成する場合なら、今日から毎日8語、1週間で57語マスターするようにすれば1年後には3000語マスターできます。
手帳には、毎日8単語マスターする時間をとります。1日1時間、1週間で7時間記憶する時間を設定します。

この結果を手帳を使って反省します。記憶できていれば「実行した」ことを意味する赤鉛筆で消しこみをします。できていなければ「できなかった」ので、消しこみができません。クリアできていると手帳は真っ赤に変わっていきます。クリアできていない手帳はきれいな状態です。

 このときに重要なことがあります。そのとき、単語数をクリアしたかどうかだけでなく、クレド(行動基準)をクリアしたかどうかもチェックします。「いまこの瞬間に集中する」「感情的な行動をしない」「できるまでやる」「決めたことは責任をとる」などのゴールデンルールがそうです。これが自分を育てます。つまり単語はマスターしたが、自分は成長しなかったというような事態にならないようにします。ほとんどの場合、目標が達成できると、自分も成長します。うまくいかなくても「感情的な行動をしない」、そして「できるまでやる」「決めたことは責任をとる」というように取り組んでいると、目標は達成できます。同時に自分も成長します。手帳はスケジュール帳を越えた「自分を育てるツール」になります。

夢ノートは、クレド(行動基準)ともども頻繁に見ることができるようにしておくことが大切です。記憶したから大丈夫と思わず、繰り返し観ることで、いつもリアルな夢として本気になれることが大事だからです。

日記は、簡単でいいから必ず記入します。一番欠かせないようにしたいのは、出来なかった日、なぜダメだったのかを簡潔に記入することです。そのときにクレド(行動基準)をクリアしたかどうかも記入します。クレド(行動基準)をクリアしていないから今日の目標が達成できなかったはずなのです。つまり自分の生き方が脱線していないか、自分でマネジメントしながら、自分の生き方を正すことで目標をクリアしていくのです。

ほとんどの場合、自分の生き方(スタイル)が自分で守れず達成できないために、自分に自信を失っていきます。自分に自信が持てなくなる最大の理由なのです。そしてそれはほとんど習慣化されてしまっているので、自分が好きになれなくなってしまうのです。自分を好きになるためにも、夢実現手帳を使いこなして、夢実現プロジェクトを実行しましょう。

そのとき、障害になることは「ライフスキル講座」でサポートしています。

2010年5月18日火曜日

自分を苦しめる命令、禁止令

 人間は考えないことはできません。考えるには言葉を使います。動物は言葉を知らないので、直感とその基盤にある記憶を使います。動物の場合の記憶は体験です。

 人間の記憶は体験に留まりませんが、それでも体験はなにより強い記憶になります。渡したい葉記憶の使い方は能力ですが、好ましい記憶があれば力になりますが、好ましくない記憶は力をそぎ落とす結果になります。

 自立が不可能なこどもにとって親の命令は生きることそのものです。命令は親から、どちらかというと異性の親から与えられる傾向があります。同性の親は異性の親の命令やあり方にどう対処するべきかについて教えてくれます。もし母親が乱暴な行為やワイルドなものを嫌っていると、息子からワイルドなものを遠ざけ、乱暴しないように言いきかせます。

そして自分の息子はやさしく親切の子だと思い込み、それにふさわしい実例として父親を与えます。つまり子供時代に観て感じて記憶する、両親の態度、行動、選択が、自身の世界観、信念の基礎となります。これがライフスキルの主要な部分になります。このプロセスを通じて、私たちは数えきれない「すべきこと」「すべきでないこと」を記憶していきます。

 もし、「すべきこと」が強くインプットされて、洪水のようになってしまうと、自立への意欲は失われてしまいます。立ち向かえないと思い込んでしまうからです。

問題を乗り越える気持ちは早々に挫折してしまうのです。これでは、「しなければならない」に支配されて、「うまくできなければ意味がない」と思い込んで、人生を愉しむ力を見失います。あなたは完璧な男性、あるいは女性でないと好きになれませんか?人生はそんなものではありません。

 友人も、パートナーもなく、お金もなく、健康でもない、それでも生きる喜びを全身で受けとめて、満たされた人生を生きる人もいます。もし、あなたが反対に持っていても不安があり、生きづらいと感じているなら、そして生きる喜び、満たされた人生を生きたいのなら、今までの人生の基準だった「すべきこと」を洗い直して見る必要があります。


洗い直す作業で知ることは、たった2つだけです。

・どんな種類の「命令」が下されているのか
・それはどんなパターンであなたを動かしているか、または行動を妨げているか



たった2つは、こんな問題を解決しました。

・異性との別れを繰り返すように教わってきた
・他人の目線を、ひどく気にするように教えられてきた
・働き続けて燃え尽きてしまうように>教えられてきた
・時間とお金の両方を浪費してその埋め合わせに人生を使い切るように教わった
・誰からも愛されないように、嫌われる言動をするように>教えられてきた
・重要な人を遠ざけて希望を持てなくなるように教えられてきた
・絶望して希望をもてなくなった人、
・必ず失敗するように能力を発揮しないように教えられてきた
・目立たないように教えられてきた


 この火たちは「あるがままの姿」を自ら閉ざした人たちです。閉ざす命令を守ったせいで、「あるがままの姿」を自ら閉ざしたのです。

バカバカしいと思いませんか?バカバカしいことを毎日繰り返してあるがままの目標に到達しないように頑張っているのです。くやしくありませんか?あなたはくやしいで済ますことができても、実は周囲にいる人に迷惑をかけていることも少なくないのです。これが悪い人生脚本です。


 あるがままのあなたはこんな希望を持っています。

・パートナーと仲良く、いたわりあって、生涯暮らしたい。
・しっかりと子育てをして、家族が仲良く暮らしたい
・目標をもってやりがいのある仕事がしたい
・人のためになるように仕事がしたい。

 あなたならできるのです。あなたがその気持ちを行動に移しさえすればね。でもなぜ、こんな簡単なことが、できないのでしょうか?あなたに下された良くない「命令」を、あなたが守って、自分の行動を遮断しているからです。決まったパターンでね。

2010年4月7日水曜日

境界を大事にする理由とは?



たとえば、職場で上司の機嫌が悪いとき。
「課長、なんだか今日は機嫌が悪そうだな、なんかあったのかな」とあなたが思えば、
「今日の課長、えらく荒れているようだな。昨日ボクがクレーム出したのが原因かな、困ったな、また叱られるかな」と同僚は考える。

同じ場面でも、人それぞれに感じ方が違います。
コップ半分の水を見て、「もう半分しかない」と考える人、「あと半分ある」と考える人。有名な「半分のコップの水」の話と同じで、同じものを見ても感じ方が違います。

つまり、物事に絶対的な「事実」があるわけではなく、私たちが個人的に、あるいは誰かの影響を受けて意味付けしているのにすぎないのです。それにしても特有のもので、たとえば国が変わればまるで違う判断になることも珍しくありません。

たとえば「クジラ」に対する考え方の違いはいい事例です。解釈が違うだけでなく、食文化でとらえる日本、生き物としての能力の高さでとらえる諸外国というように見ている立場が根本的に違います。出来串に対して肯定的に受けとめる人がいれば、否定的に受け止める人がいます。つまり私たちは、あるがままに見ているのではなく、自分の色眼鏡を通して見ているのです。

このどうしょうもない事実を受け入れなければ、公平なコミュニケーションはできないと考えるのが良いコミュニケーションをする前提になります。

基本的に、自分の感じていることは自分だけのものなのです。他者が感じていることは他者だけのものなのです。つまり感じ方の違いは、人と人の間に境界があることを語っています。だから私もよし、あなたもよし、お互いに自分の考え方を大事にしましょう。と互いの領域を認め合います。

さて、ここでひとつ間違うと、私は私、あなたはあなた。お互い好きにしましょう。になります。それは冷たいですね。「私もよし、あなたもよし、」とは、「私は私を大事にするけど、あなたのことも私の事のように大事にします」ということでないとつまらないですね。意見の違いはあるけれど、だからといって私はあなたに対して率直、誠実、対等に、責任を持って自分の意見はアサーティブに伝えますね。あなたも同じようにアサーティブに言ってくださいね。参考にしますね。と言う事の方が楽しいしうれしい。自分のことのように心配してくれる友人はありがたいものです。

それは支配ではありません。私が心配しているのに私のいうことを聞かないのは許せないとなると支配です。

どんなに心配しても相手にはなれない。その切なさがあるから、自分のように心配する気持ちを大切にしたいですね。

私はここまで、ここから先はあなただけの世界。だから精一杯応援していますね。
境界線に立って、手を振る。

2010年4月4日日曜日

アルコール依存症の親を持つ成人した子供たちは同じ苦しみを味わっているのか?



「アルコール依存症の親を持つ成人した子供たちは同じ苦しみを味わっているのか?」とよく訊かれます。
自分はひどくおどおどしている。自分でもいやです。
自分はひどく変わっている気がする。自信を持って話せない、行動できない。・・・・・同じ現象に苦しんでいる人はたくさんいます。しかし、現象は共通したものではなく様々です。
その一方で、アルコール依存症者の親のもとで育ったこどもの体験を話すと、「自分のことのように聞こえます」と言います。特に人間関係では、似たような悩みのご相談を数多く受けます。そしてその苦しみに共感します。ほとんどの人が心理的に共通した体験を持っていて、同じような不安と恐れを持っています。

だからと言って同じ体験をしているわけではありません。不思議とも言えるその理由には、いくつかの要因があります。

・親のアルコール依存症が発症したときのこどもの年齢が違う
・両親ともアルコール依存症なのか
・片親だけの場合、父親か、母親のどちらがアルコール依存症者なのか
・家族の子供の人数と誕生した順番
・配偶者自身(共アルコール依存症)の回復のための努力の度合い
・身近にサポートする人がいるか
・身体的な虐待があるか
・性的虐待があるか
・家族の社会的な地位
・家族の経済力

同じ家族であっても、すべての子供が同じように影響を受けるわけではないので、その反応のバラバラ。例えば、ある子供はアルコール依存症の状態をはっきりと見て身体的な虐待を体験しているかもしれない。しかし他の子は体験が乏しく記憶にないかも知れない。すると兄弟で親のイメージが違うことが起こってきます。
同じことは親にも言えるわけで、親の立場になれば、同じように育てたと思い込んでいます。しかしそんなことはないのです。

子供たちは状況に適応するために、それぞれに子供独自の方法を見つけ出しているのは珍しいことではありません。兄弟でもある子だけが特別に強い反応を示していることもあります。
しかし個々に違いがある一方で、アルコール依存症の親を持つ成人した子供たちは全体に共通して、情緒障害を起こし、自己否定感が強く不信感を持っています。

アルコール依存症者の子供たちが引き受けた大人の役割とは?




アルコール依存症者のほとんどの子供たちは、大人の役割を引き受けます。主な大人の役割には3つあります。

・責任をとる役割
・順応する役割
・慰める役割

責任をとる役割を引き受けるのは、主に長男・長女、一人っ子です。混乱する家族の中心にいて、積極的に家族をケアする」責任を引き受けます。その具体的な内容はほとんど「配偶者」の行うことのすべてです。しかも学校にも適応して成績も優秀な場合が少なくありません。子供らしく遊ぶこともこなします。家族の柱と子供を使い分け、社会的にも自分をコントロールする力を持っています。まさしく子供でありながら、大人の役割をこなしています。

順応する役割は、安定を保つために、なにが起こっていても、無視するというものです。どんな環境、状況にも超然とすることで適応します。
体の色や形を周りの環境によって変化させる生き物のように、うまく適合して誰からも注目されるようなことはしません。しかしなにごとについてもうまくやりきってしまいます。
順応する秘訣は、敵を作らず自分の要求を持とうとしない点にあります。順応することを最優先するので、自分が主体的に影響を与えることはできないと、ほとんど無意識に思い込んでいます。人への配慮、状況を察知する能力は高く、八方美人と受け取られることがあります。


慰め役は、もめごとを解決して処理する点で長けています。アルコールに支配され、モノが飛び壊れ、悲鳴があがり混乱する家庭内の状態を想像してください。慰め役はいまナニが起こっているのかを察知し、状態がそれ以上悪化するのを防止して、沈静化します。日常的にくり返される緊張と混乱のなかで身につけた才能なのです。

・責任をとる役割
・順応する役割
・慰める役割

それにしても子供たちは、なぜこのような役割を自主的に引き受けるのでしょうか?これらは、混乱の真っただ中で身につけた生きる知恵なのです。しかしそれ以前の問題があります。家庭に生じた混乱が自分のせいだと思い込んでいるのです。その引き金になっているのが万能感です。親を操作する力である万能感は裏返せば「自分のせい」になります。自分がいい子にしていたら混乱は治まると考えるのです。

必死にサポートする事で、大好きな親に変身すると信じて役割を引き受けます。そして役割をこなす内に才能になります。この才能と引換に無邪気な子供の心を失ってしまったアルコール依存症者の子供たちの無念を、大人になってから取り戻す事は大切なことなのです。

2010年3月28日日曜日

主語を変えるとWIN-WINになるってどう違うの?



感情的になりがちな人は、隠れ主語に『相手』を使うのでコミュニケーション・トラブルが生じます。良いコミュニケーションにするには、主語を自分にすることです。主語を自分にすると率直、誠実、対等、自己責任が実行できます。

 主語を相手から自分に変えるとどうなるか、別の事例で見てみましょう。

店長「課長に何とかして欲しいとお願いしてあった求人の問題。どうなりましたか?また退職者が出るので手が足りなくてシフトが組めませんよ。課長から手配するように総務に話していただけましたか?」

課長「ああ、あの求人の問題ね。総務も頑張ってくれているが、まだ応募が少ないようだ。」

店長「いや、応募というより求人告知の問題じゃないんですか。それに条件の見直しも必要なんじゃないんですか」

課長「それもあるだろうが、でも離職率も高すぎるっていうじゃないか。ウチみたいなところは離職を少なくしないと困るんだ。来てくれた人は大事に育てていかないとな。いまいるスタッフを大事にしないと。」

店長「いればいいってもんじゃないんですよ。ミスする連中ばかりで、こっちがバタバタするばかりなんですよ。現場のことは実感できないと思いますが、教育するのも大変なんですよ」

課長「スタッフ育成はキミの仕事だろー・そんなことはいつものことだよ。マネジメントするのが当たり前じゃないか。文句を言わずにちゃんとやれよ」

店長「いつもそうなんだから、結局、そういってまともにとりあってくれないじゃないですか」

ついにはケンカ腰になって課長を怒らせてしまいます。
この会話の、どこにどんな問題が潜んでいるのでしょうか。

ここでは店長の言葉の隠れた主語に「相手(課長)」が多く使われています。
「'手配するように総務に話していただけましたか?」
「現場のことは(課長には)実感できないと思いますが、」
「結局、(課長は)そういってまともにとりあってくれないじゃないですか」という具合です。隠れ主語で攻撃していることが明白です。

自分を主語に変えてみると
「課長の考えを聞かせていただけると(自分は)嬉しいのですが」
「現場のことを(自分は)理解してほしいのです」
「(自分には)いつもまともにとりあってくれていないように思えますしとなります。

先のものは、店長から攻撃されている印象の強い言葉ですが、隠れ主語を自分(店長自身)に変更すると、押しつけられている印象は消えて、一つの意見に様変わりします。同じ内容のことですが、このような会話に変えると相手も受け取りやすくなり、自分も話しやすくなります。

会話の目的が相手を攻撃することにあるのか、求めている結果を実現するのか、予め意識することがとても重要だということが分かります。相手を傷つけても何のメリットもありません。ウィンウィンを実現する立場に立つと会話の方向性も明確になります。主語の大切さが意識できるようになり、主語を自分にすると、自分の気持ちや意見もはっきりと言いやすくなります。

日頃から隠れ主語に「相手」を使っていないかのチェックもぜひやってみてください。主語を自分に置き換えるトレーニングをして、自分の会話パターンをより良いものに変更するようにします。

自分を主語にするとは?


主語の使い方でコミュニケーションは全然変わります。

特に言いたいことが言えない人にとって、
主語の使い方を変えると劇的に変わります。

▼そこで、こんなコミュニケーションをしていないか、確認してください。

待ち合わせをした友人が遅れてやってきました。

友人「ごめんなさい、遅くなって」
わたし「遅刻をすることが多いよね」
友人「仕事が長引いて」
わたし「一時間も遅れたよ」

この会話には「主語」が隠れています。主語を(  )で出してみましょう。

▼隠れ主語を出すと

友人「ごめんなさい、遅くなって」
わたし「(あなたは)遅刻をすることが多いよね」
友人「仕事が長引いて」
わたし「(あなたは)一時間も遅れたよ」
友人「ごめん、ごめん」

どうでしょう?相手を責めていることが分かります。

隠れ主語を使う人に特徴的な傾向があります。
隠れ主語に、相手(あなた)を使う傾向が高いのです。
つまり相手の責任にふってしまいます。相手は気が重くなります。


▼次に主語を私に変えるとどうなるか見てみましょう。

友人「ごめんなさい、遅くなって」
わたし「遊びの約束でも(私は)時間は守って欲しいわ。」
友人「仕事が長引いて」
わたし「(私は)あなたとの時間を楽しみしている気持ちを台無しにしたくないのよ」
友人「ごめん、ごめん」

隠れ主語を自分にすると相手を攻撃することなく言いたいことが言えるようになり
ます。言わざるを得なくなります。

同じ「ごめん、ごめん」でも相手の気持ちの状態も違うことが分かっていただけ璃
とおもいます。

上の「ごめん、ごめん」は謝罪しているけれど、立場がなくムッとしています。
(私は)を隠れ主語にした下の場合では謝罪しているだけでなく相手も気持ちの切り
替えができます。WIN-WINの関係になれます。

では、次の事例を見てみましょう。

アルコール依存症者の子供たちには、こどもの時代がなかった?




人間には3つの心、「親の心」「大人の心」「子供の心」があります。
「親の心」には厳格な心と保護的な心、つまり父親的なもの、母親的なものがあります。「子供の心」にも従順な心と無邪気な心があります。これらの心は主に家庭で育まれていきます。

 健全な家族では5つの心が、一貫性のあるルールと仕組みのなかで育まれます。
一貫性のあるルールと仕組みがあるのは健全な家族の特長ですが、欠落している家族があります。アルコール依存症の人が存在する家族です。この種の家族に育てられた子供には、無邪気さの不足が目立ちます。

 彼女らは幼いときから、”子供”として過ごした時間が少ないので、無邪気な経験が失ってしまったのです。
同級生が学校から帰ったら遊びに行こうと誘います。しかし彼女にはもっと重要なことがあります。家に帰って点検して今夜の予定と気の持ち方を決めなければならないのです。

アルコールの瓶がどこにどんな状態で置いてあるのか、注目の人はしらふか、誰がいて、誰がいないのか、妹の世話をするのは誰か、夕飯の支度をするのは誰か。彼女は点検した上で、自分の行動と気持ちを決める必要があります。無邪気さを体験する代わりに親あるいは大人を体験します。自分に対して自ら厳格を要求し、対外的には嘘をつくことで自分を保護することを憶えます。

 彼女は混乱した部屋の扉を閉めて、こういいます。
  「万事順調、なにごとも起こっていない」

彼女は責任を全うしたことに安心します。いまなにが起こっているのか、すべてを把握することに忙しく、なにが起こっても上手に切り抜けるスキルを身に付けていきます。一緒に暮らす大人よりも、はるかに大人らしくふるまい、親よりも上右に保護します。

自分さえしっかりしていたら、アルコールの瓶は増えない。親は近づいても安心な存在でいてくれる。他者の責任まで自分の責任として受け止めて責任の領域は広範囲に及びます。

親が自分と本当のゲームをして遊んで、親が最後まで続けて親が勝ってくれるようなら最高に楽しい時間だ。もし、親が負ける、最後まで続けない時は、楽しくないだけでなく、すでに危険な渦に巻き込まれたことを意味する。

 こうして「こども」を体験しないまま成長した彼女は、成人しても、自分の責任範囲を超えて自分の責任だと考える習慣を手放しません。ほとんどの場合、手放す理由も、手放し方も分からないままだからです。
同僚が黙っていると自分の責任だと感じ、上司がしかめ面をしていると自分の責任だと感じ、赤ん坊が泣いていると自分の責任だと感じ、パートナーが会話を好まないと自分は見捨てられたと絶望します。

結婚する前に仲睦まじく交際した期間、それは彼女が少しばかりの無邪気が許された期間。パートナーがテレビに見入っている姿は自分をかまわずに酔いつぶれていた親とだぶります。絶望の足音を感じながらも、「たいしたことはない、私さえ黙っていたらきっとうまくいく」と自分の願望を抑えます。
泣きじゃくるこどもとふたりきりになったとき、冷やかな空気が部屋中に漂います。「私にはこどもであった記憶が一度もない」
いや、そう言える人はまだマシなのかも知れない。考えることもない人もいるのだから。
孤立感のなかでさらに自分にムチを打ちます。親として責任を果たさないと・・・・もっと頑張らないと・・・・この子が泣いているのは、私の責任だ。焦りと責任感に追いかけられる。まるで責任に指名手配されているように感じます。
 彼女がすることは、うまくいっているように見せることではなく、サポートを求めることです。助けてほしいとサインを分からないように出すのではなく、分かるように出すことです。

「万事順調、なにごとも起こっていない」ではなく、
「私は完璧じゃない、大丈夫じゃない、私には助けがいる」と伝えることです。
それが「自立」なのです。「なれる最高の自分になる」方法なのです。
 家庭ではもちろん、どんな職業をしていても、子供の心を持っていることは必要です。子供の心がないとさわやかなコミュニケーションができないので、相手に負担を与えてしまいます。
人は死ぬまで、「親の心」「大人の心」「子供の心」を持ち続けるものなのです。
いまからでも、無所気なことを、童心に返ることを、アサーティブに、積極的にするようにしましょう。

アルコール依存症者の子供たちが「サバイバー」と呼ばれる理由は?




アルコール依存症者の子供たちが「サバイバー」である理由

 見かけは同じでも、アルコール依存症者の子供たちが成人した意味は、そうでない子供たちが成人したこととは随分違います。彼らは幼い時から戸籍謄本によって兵役に召集されたようなものです。無事に「成人」に辿り着けたことは、アルコール依存症者の子供たちにとって生き残りに成功したことを意味する。しかも、そのほとんどは基本的に一人で生き延びていて、そのプロセスで、精神的に肉体的にも傷つけられ、見捨てられた孤立の記憶とともに不安と恐怖と痛みを体験しています。

 アルコール依存症の親を持つ子供たちは、弾丸の雨嵐から身をよけながら戦場を駆け抜ける子供のようです。しかもそのとんでもない体験を誰にも話すことないし、生活の情緒的な側面を切り離すと言う離れ業をやってのけています。

突き上げてくる感情を追いやるためには、否認、抑圧、遮断となんでもする。自分の感情を自分から遠ざけ孤立することで、感情は自分のものでないようにできることを学んで来た。情緒や感情は自分の味方にはなることのない敵なのだ。もし切り離さずにいたら、自分の感情に叩きのめされてしまう。

誰にも見つからずに生き抜くために、暮らしのあらゆる場所には、秘密が張り巡らされている。仮に誰かに話したとして誰も味方になってくれるとは思えなかった。むしろ危険が増えるだけだと直感的に判断した。

もし誰かに話すことで幸運にも状態が改善されるくらいなら、自分の周囲の大人の誰かが良くなるためのなにかを誰かがしたはずだと思えた。それがないのは状況を黙って受け入れるだけに思えた。しかも彼らは数回にわたって状況を伝えた記憶となにも変わらなかった記憶を持っている。そして何も話すなと言われた記憶も持っている。助けを受けることはできず、受容と忍耐を促されていた記憶がもっとも強く残っていて、それは彼らを深く傷つけ絶望感となって心身に浸透している。

秘密と併せて、彼らは情緒的な側面を切り離してきたので、約束、愛情、信頼、親密、保護などに対して経験が乏しく。どのように向き合っていいのか分からない。その一方で自信喪失、抑うつ症状をきたしている。実際の戦場から帰還した兵士が病に苦しんでいるのに似て、傷ついている。それは残念なことだが、いつまでもそこに立ち止まることはない。いまいる場所は、戦場ではなく、別のやり方が通用する場所で、そうすることがもっと楽にやっていける方法だ。立ち上がり、歩み始めることだ。

依存症の症状は、ピンからキリで、その他の依存症と同じく定義も誤解されています。アルコールを消費する量が多いからという理由でアルコール依存症とは決めつけられません。少量であってもアルコール依存症に陥った人はたくさんいます。また明らかな影響を受けていても、自分の親をアルコール依存症者と考えていない人もたくさんいます。その背景には「否認」が働いていることも影響しています。

しかし、アルコール依存症者の子供たちには、程度の違いはあっても共通した特徴があります。そしてその人たちには、魅力的な人が多く、優秀な人がたくさんいます。また彼らは長い戦場体験によって緊張が普通になってしまっている場合があります。平穏に耐えられず自ら緊張を作り出す人がいます。平穏をよしとする人には耐えられないストレスになります。

その人と能力に惹きつけられはしても、理解できない行動に面食らい悩むことも少なくありません。どうしていいのか分からない想いは、実はアルコール依存症者の子供たちが傷ついて苦しんでいる証しなのです。だから彼らを本当に愛しているというなら、一緒になって傷の回復をめざす勇気が必要なのです。生半可な同情は結果敵にさらに傷つけることにもなりかねません。

生き延びるために否認を使って来たこと、緊張を好む傾向がひとつになるので、回復の必要を感じることが難易度の高い問題になることも少なくありません。なにより自分を守ることが最優先であったために、欲しいものが欲しいと知られると、自分がコントロールされる危険を反射的に考えます。孤立の記憶といまとこの先の孤立を嫌い、それゆえ無意識に現在の孤立を選択しています。孤立していれば孤立はないからです。無力な子供が生き延びるために、幼児期からのもっとも重要な課題であったことを理解してあげてください、

しかし、すでに気がついていてどこかで自分のやり方を手放したいと考えている人もいます。急がずに、ゆっくり少しずつやり方を変えて行くようにしましょう。急がないことが古いやり方を手放すうえで、成功させる条件なのです。

成人したいま、戦いは終わっています。戦場から帰還すること、帰還したら傷の手当をして回復をめざす。サバイバーに幸多いことを願います。

併せて、「不安」がどれほど人を傷つけているかについて真摯に考えるべきです。そして私たちがコミュニケーションスキルを磨くことで、ムダな不安をどれだけ軽減できるのかを認識したいものです。


 余談ですが、ほとんどの人に身近なテレビ箱のなかでは、報道、娯楽を問わず、攻撃的な言い回し、感情的な態度がエスカレートする一方です。こんなものに親しみながら子供が健全に育つとは考えにくい時代です。大切にされている実感が子育ての基本です。

2010年3月27日土曜日

アルコール依存症者の家族はナニがどう違う



アルコール依存症者を持った家族は、依存症者と同じように起こっている現実を見ようとしない特徴があります。依存症者も家族も同じように否認するので、子供も成長過程で現実を否認する習慣を身につけていきます。

否認するメリットは家族が不安の防衛です。破綻する恐怖を認識しなくて済むことです。家庭内で起こったことは公言しないことに始まって、一貫性がないこと、予測不可能であること、混乱していることが暗黙のルールとして家族に浸透します。家庭は理解や成長する場ではなくなります。否認するメリットは大きなデメリットに反転します。

前日の会話の内容が、今日になれば一転しているのは日常的になります。これはアルコールの影響であると共に人格が変化する2つの側面の結果です。

子供は約束をしてくれた親を慕い信頼しますが、翌日にはそのかけらすら味わうことができなくなり失望し落胆します。繰り返しやってくる失望を乗り越えるために、学んでいた「否認」を使って乗り越えます。期待しなければ、望まなければ傷つくことはないと考えるようになります。自分の願望を自ら認識しないように自分を躾けていきます。

その一方で、彼らは、隣あるいはどこかに完全な家庭があると信じます。不合理な比較をするようになり、「恥」を終始妄想することになります。何に対しても自信がなく、安全と認識した世界においてのみ、自己表現を試みます。「白か黒か」「すべてか無か」の極端な発想は、家族間のルールで培われています。

たとえばある物事について、父親がノーと言い、母親はイエスと言う。両者の間では、コミュニケーションが希薄な上、逆転は日常的なので、アルコール依存症者の家族では一貫した決め事ができない仕組みになっています。

子供は二つの相反するルールを持つので、混乱します。したいことができない、言いたいことが言えない。引き裂かれてしまいます。自分の願望とそれを否定した者の願望を受け入れてしまします。混乱が起こりますが、否認が習慣化しているので、本来の欲求を自分なりに無理な理由づけをして抑圧します。自分の欲求に気がつかなければ自分は傷つかないし、失望しないと考えるのです。こうしてますます自分の欲求がはっきりしなくなります。

他者とのコミュニケーションでは、壊れた堤防を越えて相手の欲求が入ってくるようになり、自分の欲求と相手の欲求が混在するようになってきます。この状況には親和性があり、自ら堤防を壊すことに抵抗を持たなくなります。

彼らは「白か黒か」「すべてか無か」の選択に安心し好みます。「中間」が苦手です。その理由は、これまでの説明で分かっていただけると思いますが、残念なことに現実的では機能的ではありません。

アルコール依存症者のいる家族の行動を正常、異常で判断することは正しくありません。そのような判断方法が改善のプロセスになることもありません。そのやり方は機能的かそうでないかで判断することが、回復のプロセスに欠かせません。

彼らは自分のやり方が正しいと信じています。事実自分や家族の身を守るための工夫に満ちています。ライオンの追いかけられた者が逃げ場を選ぶ余裕がなく、たまたま選んだ場所が危険な洞窟だったとして、それを異常と決め付けることはできないのです。

機能的な仕組みに変えていくとは、そこは危険だから安全な場所に移動しなさいということでしかないのです。

機能的な家族とは、なによりもまず役割が機能していることです。役割が機能することでふさわしい能力が求められます。父親は一家のリーダーとしての能力、母親には裏方としての能力、子供には子供にふさわしい能力がそれぞれ求められます。子供は食料の買い物や料理、家の雑用、車の移動などを期待されることはありません。親が負うべき責任を負うことはありません。子供は親でなく。親は子供ではありません。

それぞれが自分にふさわしい能力を身につけるように努力します。そのプロセスは一貫していて、子供は自分が愛されていると信じています。今日がそうであるように明日も同じと信じています。物事にどう対処しどのように責任を取るのかを教えられます。家族の一員として安心して努力できます。

家族それぞれの努力が問題を乗り越える能力の基礎になります、こうして家族は問題があっても乗り越える機能を持つように育っていきます。最初からすべてが機能しているわけでなく、機能するようにしていくのです。

機能的な家庭ではルールは明快単純で、問題があったときには柔軟に変更して、家族全員に浸透させます。ルールは自分勝手に気まぐれに毎日変わることも、時間毎に変わることもありません。子供たちは何を期待されているか分かっています。当たり前といえばそうですが、驚くべきことにこの仕組みは優秀な会社と全く同じです。

機能していない家族では、今日と明日は同じではなく、いつ暴力を受け捨てられるかも知れない恐怖があります。愛されていない恐怖が支配します。物事がコントロールできない不安に脅かされています。自分以上にうまくやれる人を発見できない孤立感が可能性を蝕みます、失敗は見捨てられる機会に思えます。繰り返し見捨てられ感を体験します。この体験が人生への勇気を食いつぶします。恐怖心を持ったまま社会に出て行きます。

彼らに必要なのは、機能回復です。安全な場所でチャレンジできる体験をすることで勇気を取り戻すことです。他者の願望のために生きるのではなく、自分の願望のために人生を使うために失った機能を取り戻すことです。誤った思い込みを知って、なにが必要でなにが不必要なのか、自分の人生のある場所に引っ越しするために能力の取捨選択する。回復は目標に取り組むと最初はゆっくり、やがて本当の自分にめざめます。