人間は考えないことはできません。考えるには言葉を使います。動物は言葉を知らないので、直感とその基盤にある記憶を使います。動物の場合の記憶は体験です。
人間の記憶は体験に留まりませんが、それでも体験はなにより強い記憶になります。渡したい葉記憶の使い方は能力ですが、好ましい記憶があれば力になりますが、好ましくない記憶は力をそぎ落とす結果になります。
自立が不可能なこどもにとって親の命令は生きることそのものです。命令は親から、どちらかというと異性の親から与えられる傾向があります。同性の親は異性の親の命令やあり方にどう対処するべきかについて教えてくれます。もし母親が乱暴な行為やワイルドなものを嫌っていると、息子からワイルドなものを遠ざけ、乱暴しないように言いきかせます。
そして自分の息子はやさしく親切の子だと思い込み、それにふさわしい実例として父親を与えます。つまり子供時代に観て感じて記憶する、両親の態度、行動、選択が、自身の世界観、信念の基礎となります。これがライフスキルの主要な部分になります。このプロセスを通じて、私たちは数えきれない「すべきこと」「すべきでないこと」を記憶していきます。
もし、「すべきこと」が強くインプットされて、洪水のようになってしまうと、自立への意欲は失われてしまいます。立ち向かえないと思い込んでしまうからです。
問題を乗り越える気持ちは早々に挫折してしまうのです。これでは、「しなければならない」に支配されて、「うまくできなければ意味がない」と思い込んで、人生を愉しむ力を見失います。あなたは完璧な男性、あるいは女性でないと好きになれませんか?人生はそんなものではありません。
友人も、パートナーもなく、お金もなく、健康でもない、それでも生きる喜びを全身で受けとめて、満たされた人生を生きる人もいます。もし、あなたが反対に持っていても不安があり、生きづらいと感じているなら、そして生きる喜び、満たされた人生を生きたいのなら、今までの人生の基準だった「すべきこと」を洗い直して見る必要があります。
洗い直す作業で知ることは、たった2つだけです。
・どんな種類の「命令」が下されているのか
・それはどんなパターンであなたを動かしているか、または行動を妨げているか
たった2つは、こんな問題を解決しました。
・異性との別れを繰り返すように教わってきた
・他人の目線を、ひどく気にするように教えられてきた
・働き続けて燃え尽きてしまうように>教えられてきた
・時間とお金の両方を浪費してその埋め合わせに人生を使い切るように教わった
・誰からも愛されないように、嫌われる言動をするように>教えられてきた
・重要な人を遠ざけて希望を持てなくなるように教えられてきた
・絶望して希望をもてなくなった人、
・必ず失敗するように能力を発揮しないように教えられてきた
・目立たないように教えられてきた
この火たちは「あるがままの姿」を自ら閉ざした人たちです。閉ざす命令を守ったせいで、「あるがままの姿」を自ら閉ざしたのです。
バカバカしいと思いませんか?バカバカしいことを毎日繰り返してあるがままの目標に到達しないように頑張っているのです。くやしくありませんか?あなたはくやしいで済ますことができても、実は周囲にいる人に迷惑をかけていることも少なくないのです。これが悪い人生脚本です。
あるがままのあなたはこんな希望を持っています。
・パートナーと仲良く、いたわりあって、生涯暮らしたい。
・しっかりと子育てをして、家族が仲良く暮らしたい
・目標をもってやりがいのある仕事がしたい
・人のためになるように仕事がしたい。
あなたならできるのです。あなたがその気持ちを行動に移しさえすればね。でもなぜ、こんな簡単なことが、できないのでしょうか?あなたに下された良くない「命令」を、あなたが守って、自分の行動を遮断しているからです。決まったパターンでね。
2010年5月18日火曜日
2010年4月7日水曜日
境界を大事にする理由とは?

たとえば、職場で上司の機嫌が悪いとき。
「課長、なんだか今日は機嫌が悪そうだな、なんかあったのかな」とあなたが思えば、
「今日の課長、えらく荒れているようだな。昨日ボクがクレーム出したのが原因かな、困ったな、また叱られるかな」と同僚は考える。
同じ場面でも、人それぞれに感じ方が違います。
コップ半分の水を見て、「もう半分しかない」と考える人、「あと半分ある」と考える人。有名な「半分のコップの水」の話と同じで、同じものを見ても感じ方が違います。
つまり、物事に絶対的な「事実」があるわけではなく、私たちが個人的に、あるいは誰かの影響を受けて意味付けしているのにすぎないのです。それにしても特有のもので、たとえば国が変わればまるで違う判断になることも珍しくありません。
たとえば「クジラ」に対する考え方の違いはいい事例です。解釈が違うだけでなく、食文化でとらえる日本、生き物としての能力の高さでとらえる諸外国というように見ている立場が根本的に違います。出来串に対して肯定的に受けとめる人がいれば、否定的に受け止める人がいます。つまり私たちは、あるがままに見ているのではなく、自分の色眼鏡を通して見ているのです。
このどうしょうもない事実を受け入れなければ、公平なコミュニケーションはできないと考えるのが良いコミュニケーションをする前提になります。
基本的に、自分の感じていることは自分だけのものなのです。他者が感じていることは他者だけのものなのです。つまり感じ方の違いは、人と人の間に境界があることを語っています。だから私もよし、あなたもよし、お互いに自分の考え方を大事にしましょう。と互いの領域を認め合います。
さて、ここでひとつ間違うと、私は私、あなたはあなた。お互い好きにしましょう。になります。それは冷たいですね。「私もよし、あなたもよし、」とは、「私は私を大事にするけど、あなたのことも私の事のように大事にします」ということでないとつまらないですね。意見の違いはあるけれど、だからといって私はあなたに対して率直、誠実、対等に、責任を持って自分の意見はアサーティブに伝えますね。あなたも同じようにアサーティブに言ってくださいね。参考にしますね。と言う事の方が楽しいしうれしい。自分のことのように心配してくれる友人はありがたいものです。
それは支配ではありません。私が心配しているのに私のいうことを聞かないのは許せないとなると支配です。
どんなに心配しても相手にはなれない。その切なさがあるから、自分のように心配する気持ちを大切にしたいですね。
私はここまで、ここから先はあなただけの世界。だから精一杯応援していますね。
境界線に立って、手を振る。
2010年4月4日日曜日
アルコール依存症の親を持つ成人した子供たちは同じ苦しみを味わっているのか?

「アルコール依存症の親を持つ成人した子供たちは同じ苦しみを味わっているのか?」とよく訊かれます。
自分はひどくおどおどしている。自分でもいやです。
自分はひどく変わっている気がする。自信を持って話せない、行動できない。・・・・・同じ現象に苦しんでいる人はたくさんいます。しかし、現象は共通したものではなく様々です。
その一方で、アルコール依存症者の親のもとで育ったこどもの体験を話すと、「自分のことのように聞こえます」と言います。特に人間関係では、似たような悩みのご相談を数多く受けます。そしてその苦しみに共感します。ほとんどの人が心理的に共通した体験を持っていて、同じような不安と恐れを持っています。
だからと言って同じ体験をしているわけではありません。不思議とも言えるその理由には、いくつかの要因があります。
・親のアルコール依存症が発症したときのこどもの年齢が違う
・両親ともアルコール依存症なのか
・片親だけの場合、父親か、母親のどちらがアルコール依存症者なのか
・家族の子供の人数と誕生した順番
・配偶者自身(共アルコール依存症)の回復のための努力の度合い
・身近にサポートする人がいるか
・身体的な虐待があるか
・性的虐待があるか
・家族の社会的な地位
・家族の経済力
同じ家族であっても、すべての子供が同じように影響を受けるわけではないので、その反応のバラバラ。例えば、ある子供はアルコール依存症の状態をはっきりと見て身体的な虐待を体験しているかもしれない。しかし他の子は体験が乏しく記憶にないかも知れない。すると兄弟で親のイメージが違うことが起こってきます。
同じことは親にも言えるわけで、親の立場になれば、同じように育てたと思い込んでいます。しかしそんなことはないのです。
子供たちは状況に適応するために、それぞれに子供独自の方法を見つけ出しているのは珍しいことではありません。兄弟でもある子だけが特別に強い反応を示していることもあります。
しかし個々に違いがある一方で、アルコール依存症の親を持つ成人した子供たちは全体に共通して、情緒障害を起こし、自己否定感が強く不信感を持っています。
アルコール依存症者の子供たちが引き受けた大人の役割とは?

アルコール依存症者のほとんどの子供たちは、大人の役割を引き受けます。主な大人の役割には3つあります。
・責任をとる役割
・順応する役割
・慰める役割
責任をとる役割を引き受けるのは、主に長男・長女、一人っ子です。混乱する家族の中心にいて、積極的に家族をケアする」責任を引き受けます。その具体的な内容はほとんど「配偶者」の行うことのすべてです。しかも学校にも適応して成績も優秀な場合が少なくありません。子供らしく遊ぶこともこなします。家族の柱と子供を使い分け、社会的にも自分をコントロールする力を持っています。まさしく子供でありながら、大人の役割をこなしています。
順応する役割は、安定を保つために、なにが起こっていても、無視するというものです。どんな環境、状況にも超然とすることで適応します。
体の色や形を周りの環境によって変化させる生き物のように、うまく適合して誰からも注目されるようなことはしません。しかしなにごとについてもうまくやりきってしまいます。
順応する秘訣は、敵を作らず自分の要求を持とうとしない点にあります。順応することを最優先するので、自分が主体的に影響を与えることはできないと、ほとんど無意識に思い込んでいます。人への配慮、状況を察知する能力は高く、八方美人と受け取られることがあります。
慰め役は、もめごとを解決して処理する点で長けています。アルコールに支配され、モノが飛び壊れ、悲鳴があがり混乱する家庭内の状態を想像してください。慰め役はいまナニが起こっているのかを察知し、状態がそれ以上悪化するのを防止して、沈静化します。日常的にくり返される緊張と混乱のなかで身につけた才能なのです。
・責任をとる役割
・順応する役割
・慰める役割
それにしても子供たちは、なぜこのような役割を自主的に引き受けるのでしょうか?これらは、混乱の真っただ中で身につけた生きる知恵なのです。しかしそれ以前の問題があります。家庭に生じた混乱が自分のせいだと思い込んでいるのです。その引き金になっているのが万能感です。親を操作する力である万能感は裏返せば「自分のせい」になります。自分がいい子にしていたら混乱は治まると考えるのです。
必死にサポートする事で、大好きな親に変身すると信じて役割を引き受けます。そして役割をこなす内に才能になります。この才能と引換に無邪気な子供の心を失ってしまったアルコール依存症者の子供たちの無念を、大人になってから取り戻す事は大切なことなのです。
2010年3月28日日曜日
主語を変えるとWIN-WINになるってどう違うの?

感情的になりがちな人は、隠れ主語に『相手』を使うのでコミュニケーション・トラブルが生じます。良いコミュニケーションにするには、主語を自分にすることです。主語を自分にすると率直、誠実、対等、自己責任が実行できます。
主語を相手から自分に変えるとどうなるか、別の事例で見てみましょう。
店長「課長に何とかして欲しいとお願いしてあった求人の問題。どうなりましたか?また退職者が出るので手が足りなくてシフトが組めませんよ。課長から手配するように総務に話していただけましたか?」
課長「ああ、あの求人の問題ね。総務も頑張ってくれているが、まだ応募が少ないようだ。」
店長「いや、応募というより求人告知の問題じゃないんですか。それに条件の見直しも必要なんじゃないんですか」
課長「それもあるだろうが、でも離職率も高すぎるっていうじゃないか。ウチみたいなところは離職を少なくしないと困るんだ。来てくれた人は大事に育てていかないとな。いまいるスタッフを大事にしないと。」
店長「いればいいってもんじゃないんですよ。ミスする連中ばかりで、こっちがバタバタするばかりなんですよ。現場のことは実感できないと思いますが、教育するのも大変なんですよ」
課長「スタッフ育成はキミの仕事だろー・そんなことはいつものことだよ。マネジメントするのが当たり前じゃないか。文句を言わずにちゃんとやれよ」
店長「いつもそうなんだから、結局、そういってまともにとりあってくれないじゃないですか」
ついにはケンカ腰になって課長を怒らせてしまいます。
この会話の、どこにどんな問題が潜んでいるのでしょうか。
ここでは店長の言葉の隠れた主語に「相手(課長)」が多く使われています。
「'手配するように総務に話していただけましたか?」
「現場のことは(課長には)実感できないと思いますが、」
「結局、(課長は)そういってまともにとりあってくれないじゃないですか」という具合です。隠れ主語で攻撃していることが明白です。
自分を主語に変えてみると
「課長の考えを聞かせていただけると(自分は)嬉しいのですが」
「現場のことを(自分は)理解してほしいのです」
「(自分には)いつもまともにとりあってくれていないように思えますしとなります。
先のものは、店長から攻撃されている印象の強い言葉ですが、隠れ主語を自分(店長自身)に変更すると、押しつけられている印象は消えて、一つの意見に様変わりします。同じ内容のことですが、このような会話に変えると相手も受け取りやすくなり、自分も話しやすくなります。
会話の目的が相手を攻撃することにあるのか、求めている結果を実現するのか、予め意識することがとても重要だということが分かります。相手を傷つけても何のメリットもありません。ウィンウィンを実現する立場に立つと会話の方向性も明確になります。主語の大切さが意識できるようになり、主語を自分にすると、自分の気持ちや意見もはっきりと言いやすくなります。
日頃から隠れ主語に「相手」を使っていないかのチェックもぜひやってみてください。主語を自分に置き換えるトレーニングをして、自分の会話パターンをより良いものに変更するようにします。
自分を主語にするとは?

主語の使い方でコミュニケーションは全然変わります。
特に言いたいことが言えない人にとって、
主語の使い方を変えると劇的に変わります。
▼そこで、こんなコミュニケーションをしていないか、確認してください。
待ち合わせをした友人が遅れてやってきました。
友人「ごめんなさい、遅くなって」
わたし「遅刻をすることが多いよね」
友人「仕事が長引いて」
わたし「一時間も遅れたよ」
この会話には「主語」が隠れています。主語を( )で出してみましょう。
▼隠れ主語を出すと
友人「ごめんなさい、遅くなって」
わたし「(あなたは)遅刻をすることが多いよね」
友人「仕事が長引いて」
わたし「(あなたは)一時間も遅れたよ」
友人「ごめん、ごめん」
どうでしょう?相手を責めていることが分かります。
隠れ主語を使う人に特徴的な傾向があります。
隠れ主語に、相手(あなた)を使う傾向が高いのです。
つまり相手の責任にふってしまいます。相手は気が重くなります。
▼次に主語を私に変えるとどうなるか見てみましょう。
友人「ごめんなさい、遅くなって」
わたし「遊びの約束でも(私は)時間は守って欲しいわ。」
友人「仕事が長引いて」
わたし「(私は)あなたとの時間を楽しみしている気持ちを台無しにしたくないのよ」
友人「ごめん、ごめん」
隠れ主語を自分にすると相手を攻撃することなく言いたいことが言えるようになり
ます。言わざるを得なくなります。
同じ「ごめん、ごめん」でも相手の気持ちの状態も違うことが分かっていただけ璃
とおもいます。
上の「ごめん、ごめん」は謝罪しているけれど、立場がなくムッとしています。
(私は)を隠れ主語にした下の場合では謝罪しているだけでなく相手も気持ちの切り
替えができます。WIN-WINの関係になれます。
では、次の事例を見てみましょう。
アルコール依存症者の子供たちには、こどもの時代がなかった?

人間には3つの心、「親の心」「大人の心」「子供の心」があります。
「親の心」には厳格な心と保護的な心、つまり父親的なもの、母親的なものがあります。「子供の心」にも従順な心と無邪気な心があります。これらの心は主に家庭で育まれていきます。
健全な家族では5つの心が、一貫性のあるルールと仕組みのなかで育まれます。
一貫性のあるルールと仕組みがあるのは健全な家族の特長ですが、欠落している家族があります。アルコール依存症の人が存在する家族です。この種の家族に育てられた子供には、無邪気さの不足が目立ちます。
彼女らは幼いときから、”子供”として過ごした時間が少ないので、無邪気な経験が失ってしまったのです。
同級生が学校から帰ったら遊びに行こうと誘います。しかし彼女にはもっと重要なことがあります。家に帰って点検して今夜の予定と気の持ち方を決めなければならないのです。
アルコールの瓶がどこにどんな状態で置いてあるのか、注目の人はしらふか、誰がいて、誰がいないのか、妹の世話をするのは誰か、夕飯の支度をするのは誰か。彼女は点検した上で、自分の行動と気持ちを決める必要があります。無邪気さを体験する代わりに親あるいは大人を体験します。自分に対して自ら厳格を要求し、対外的には嘘をつくことで自分を保護することを憶えます。
彼女は混乱した部屋の扉を閉めて、こういいます。
「万事順調、なにごとも起こっていない」
彼女は責任を全うしたことに安心します。いまなにが起こっているのか、すべてを把握することに忙しく、なにが起こっても上手に切り抜けるスキルを身に付けていきます。一緒に暮らす大人よりも、はるかに大人らしくふるまい、親よりも上右に保護します。
自分さえしっかりしていたら、アルコールの瓶は増えない。親は近づいても安心な存在でいてくれる。他者の責任まで自分の責任として受け止めて責任の領域は広範囲に及びます。
親が自分と本当のゲームをして遊んで、親が最後まで続けて親が勝ってくれるようなら最高に楽しい時間だ。もし、親が負ける、最後まで続けない時は、楽しくないだけでなく、すでに危険な渦に巻き込まれたことを意味する。
こうして「こども」を体験しないまま成長した彼女は、成人しても、自分の責任範囲を超えて自分の責任だと考える習慣を手放しません。ほとんどの場合、手放す理由も、手放し方も分からないままだからです。
同僚が黙っていると自分の責任だと感じ、上司がしかめ面をしていると自分の責任だと感じ、赤ん坊が泣いていると自分の責任だと感じ、パートナーが会話を好まないと自分は見捨てられたと絶望します。
結婚する前に仲睦まじく交際した期間、それは彼女が少しばかりの無邪気が許された期間。パートナーがテレビに見入っている姿は自分をかまわずに酔いつぶれていた親とだぶります。絶望の足音を感じながらも、「たいしたことはない、私さえ黙っていたらきっとうまくいく」と自分の願望を抑えます。
泣きじゃくるこどもとふたりきりになったとき、冷やかな空気が部屋中に漂います。「私にはこどもであった記憶が一度もない」
いや、そう言える人はまだマシなのかも知れない。考えることもない人もいるのだから。
孤立感のなかでさらに自分にムチを打ちます。親として責任を果たさないと・・・・もっと頑張らないと・・・・この子が泣いているのは、私の責任だ。焦りと責任感に追いかけられる。まるで責任に指名手配されているように感じます。
彼女がすることは、うまくいっているように見せることではなく、サポートを求めることです。助けてほしいとサインを分からないように出すのではなく、分かるように出すことです。
「万事順調、なにごとも起こっていない」ではなく、
「私は完璧じゃない、大丈夫じゃない、私には助けがいる」と伝えることです。
それが「自立」なのです。「なれる最高の自分になる」方法なのです。
家庭ではもちろん、どんな職業をしていても、子供の心を持っていることは必要です。子供の心がないとさわやかなコミュニケーションができないので、相手に負担を与えてしまいます。
人は死ぬまで、「親の心」「大人の心」「子供の心」を持ち続けるものなのです。
いまからでも、無所気なことを、童心に返ることを、アサーティブに、積極的にするようにしましょう。
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