人は誰でも一生懸命にやっていると思いたいものです。しかしカタルシスになっても、だからどうしたという話しでしかありません。なぜなら、みんな一生懸命だからです。
遊び人だってツボにハマった時には一生懸命になり力を発揮します。大多数と変わらない。ツボの範囲が狭いだけで、一般が違うのはツボに入らない仕事との付き合い方が露骨でないだけです。
金のないものなら、どんな職業でも、みんな命がけで一生懸命になっています。だから命がけでやっても、大差はつかないものです。出し抜いたものは、決まって人と違うことをしています。頭と体を使って出し抜く。それが心のありようになるのです。
言うのは簡単ですが、人の真似している限り、安全だと思い込んでいる者にはその真似ができません。みんながやっていることを真似しているだけでは消耗するだけですが、それは気にならないようです。そこでたいして面白くないことが蔓延して、ツボにハマらないことが目立つようになります。商売する側はモチベーションを下げたままで一生懸命で、買う側は心動かすものを探し続けます。ミスマッチが多いほどハマッた時のインパクトが大きいのは当然です。
ツボにハマった者、ハマらないものがが共存するので、どんな世界にも、アマチュアとプロフェッショナルがいます。ツボを作ってやるのがプロフェッショナルであり、一般にアマチュアとは指示を受けて仕事をする者、プロフェッショナルは指示を出す立場にある者、管理者、マネジャーがそうです。指示を出すだけでなく達成できるようにサポートできることが条件に含まれます。リーダーは少し次元が違い、
リーダーとは、まだ遭遇したことのない世界に連れていってやれる者です。
アマチュアは、生活がかかっていない人、あるいは敏感になる必要のない人のことで、プロはそこが違います。プロはずっとそれで飯を食う。誰でも知っていることですが、給料もらって生活していると、生活感とプロ意識が乖離してしまう。プロには生活と能力の2つの側面があって、深い因果関係があります。その因果を深めているのが目的意識ですが、乖離してしまうと曖昧になります。生きてさえいたらいいのか、儲けてさえいたらいいのか、そこのところの問題に行きつきます。
どんな世界にも競争があります。本当に競争が厳しい世界であるほど、この違いは鮮明で、決定的な要因になります。
アマは、その場さえうまくいくとしめたと思います。プロには、考えられない発想です。言い方を変えると細く長くがプロの発想です。それで飯を食っているからです。たまたまでは困るのです。次も同じように出来ないと使い物にならないのです。だから結果主義を嫌い成果プロセス主義を尊びます。ところが、アマは太く短くてもいい。だから目先しかない。結果主義でもOKなのです。プロは大局的なので「損して得とれ」と考えることができます。アマには出来ない発想です。この大局観の核になっているのが、目的のありようなのです。
目的と目標はよく混同されますが違います。目的は抽象的ですが、目的を具体化したのが目標で一般的には数値目標がそうです。
人はとかく表面化した現象で評価しますが、現象はモノサシになりません。先に言ったようにアテにならないことは論外なのです。プロはアテにならないことに右往左往していられません。なぜならプロは自分にできることを高めていくことが命綱です。
しかしそれでは不十分で、さらに自分にしかできないことにこだわり磨きをかけます。これがプロの条件だといえるものですが、その一途を支えるのが人としての目的なのです。目的がないとそんなエネルギーは、どこからも湧いてこないのです。プロは終わりにない長距離競争のようです。アマにはそれが分りませんので目的を軽視します。目標だけを追いかけます。短距離競争のようです。
アマからプロになるには自分にしかできないことを磨く覚悟がいります。他者ができることをしているだけでは必要とされないからです。どんな世界にも主役と脇役というように役割分担があって、それぞれの役割が必要とされるように、プロは自分にしかできない技術を磨いています。
それを支えているのが、何度も言いますが、人としての目的で、そのありようは目に見えません。だからアマはプロを自分より優れた人程度に見ていますが、「あり方」「考え方」「やり方」と幾重にも違うのです。
競争に於ける差別化は、プロだから差別化できるのでなく、差別化できるからプロになれるのです。差別化できるのは自分にも他者にも明快な目的があるからです。働いていたらいい、儲けていたらいいという発想しかないものに、差別化はできないので、ずっとアマのままなのです。
さて、ここから核心に入っていきますので注意してくださいね。
自分のレベルが上がらないと対戦相手、競争相手もアマのままです。レベルの違う者と対戦はできません。どんな世界でも同じで、自分のレベルがあがると相手のレベルもあがりますが、比例して苦しくなるのは当り前です。それが自分のパワーアップになりますが限界になることもあります。
これは相撲の世界では如実にでます。相手のレベルが上がると、これまでのようには勝てなくなります。より上の相手に勝つにはそれ相応の力をつけていないと相手になりません。相応の力を養うことが義務化されます。目標設定と同じ仕組みです。
達成しやすいように低め、低めに設定していたら成長しませんが、長く飯を食う必要のない者にはそれでいいことになります。
「損して得とれ」を文字通りに解釈する人がいますが、それは読み違いだと思います。人間にはできることとできないことがあります。出来ないことにいくら精力を注ぎ込んでも出来ません。「損して得とれ」とは”自分が出来ることに命がけの力を発揮する。”そういう意味だと解釈しています。
できないことをいくら努力しても無理なのです。してもらわないと困ることがあるし、してもらっては困る努力もあるということです。する程尊敬される努力もあれば、する程軽蔑されることもあります。するほど、バカと思われることもあります。そこのところを誰れの腑にも落とせるのが、プロフェッショナルなのです。つまり原理原則、道理に合わないことをしないのがプロなのです。プロはそれで生計を立てているからバカなことをしないのです。自分がコントロールできることをするしかないので、他力本願に背を向けます。これは俗に言う能力以上のことをしないという意味ではありません。自分の能力は努力で向上させることができます。
ここが肝心なのでしっかり受け止めて欲しいのですが、自分にできることしかやらないということは、自分の努力が及ぶことしかしないということなのです。でもアマはやります。それで生きていこうと思っていないので、時間を自分のできないことに使っていても気にならない。他力本願でも気にならない。
たとえば恋愛の悩みはその典型で、相手が自分の思い通りにならないということに悩みます。丁半博打で自分が想像した目が出る方法を教えてくれというのと同じようなものです。考えても仕方のないことを身も細るほどに悩みますが、これなんかはそれで飯食っているわけではないからできることで、もし恋愛で飯食ってたら、そんな人もいないけれど、考えても仕方のないことは気にしないでしょう。運任せで生きていけないからです。
自分にできることで、実際の解決策を言うなら、結論はひとつしかありません。相手があなたでないとどうしてもダメだと思い続けるようにするしかありません。相手好みの他の誰れとも違う自分になるしかないのです。そこで次のような問題が起こります。
- 相手好みの自分になれない=主体性を失う
- 相手好みの自分になれない=能力がない
- 相手好みの自分になりたくない=従属的になりたくない
しかも、従属的になると、逆にウザいと蔑まれる。反対に主体性を維持すれば、傲慢と嫌われる。能力が乏しいと蔑視される。相手が立つか、自分が立つかと競争的な関係になりかねません。自分にできるもっとも適切なことは、主体性を失わずに、能力を高め、協調性のある自分になることです。それでも相手が気に入ってくれない場合はお互いを尊重して別れられることです。いい女はそれができる女で、人間としてプロなのです。恋愛の前に自分の暮らしがきちんとできることが必須なのです。ライフスキルの力が大きいのです。
ところが悩む女も男も、神様にでもなる勢いで、できないことに意識が集中しています。逆に自分にできることに無関心です。相手に翻弄される態度を甘受できるのは、アマチュアだからです。暮らしがぶっとんでる。恋愛が成就しても生活が破綻する可能性があります。そんなことしていたら孫の世代までおかしくなります。
しかも、今日は機嫌がいいか、悪いか、相手を伺いながら、一生、パートナーとの間で丁半博打みたいな関係を続けるつもりなのか、本人にはそういうつもりはなくても、可能性は低くはありません。笑い事ではない夫婦関係は思う以上に少なくないのです。つまりもともと真剣に仲のいい夫婦を続けて行こうという気がないか、不勉強だということなのです。いくら若くてもそれは無謀というものです。どちらかが破綻したら連れ合いは破綻した側に引っ張られます。
不勉強でもなんとかなると思っているのは、すでに不真面目ということで、本気ではないのでアマチュアだし、アマチュアの生き方しかできないのです。すでに見たような気がする世界をなぞる気迫に欠けた生き方をすることになります。
アマチュアがギャンブルに手を出すと、賽の目ばかりに気をとられます。恋愛の悩みと同じで彼は私を好いているか、どうか?うまくいくかどうか?と自分がコントロールできない考えても仕方のないことを考え続けるのと同じです。
奇数、偶数を当てる丁半博打の勝ち負けの確率は50%ですが、張り方で確率が変わると思い込んでいるので、どちらが出るかを必死で考えようとします。たとえば5戦したとして奇数、奇数、偶数、奇数、偶数なら奇数3回、偶数2回で、奇数が1回多い。そこをうまく読み当てると1回多い分勝ちになる。反対なら1回負けになる。これを張り方の違いと考えているようですが、偶然を重ねただけのことで、プロなら、これを張り方とは考えません。
自分でコントロールできない奇数、偶数はどうでもいいことなのです。どんなギャンブルも同じで、張り方とは張る金の動かし方なのです。1000円.1000円と張って、2回とも当らず2000円の損、三回目に3000円張って、当ると前2回の2000円の損を取りもどして1000円の勝ち。ギャンブルで自分がコントロールできる部分はこの部分だけで、損をしないことが、飯を食わなければならないプロの鉄則なのです。野球でも相撲でも同じで、通算で負けないことが鉄則で、だから負けないスタイルを確立していることがとっても重要なのです。
人間は生きていかなければならない。「ならない」というのは変かも知れませんが死んでしまうには、もったいないほど、面白いことがいっぱいあります。生きるとは、継続することで、どんなに小さな会社だって”Going Concern”といって無期限に事業を継続することを前提にした経営をすることが決まりになっています。だから赤字を出すわけにはいかないのです。人間も同じで、どうにもできないことに翻弄されて破壊するわけにはいかないのです。自分をコントロールするのは、能力の問題ではなく責任なのです。だから震災に遭った方々がどれだけ大変なのかお分かりいただけると思います。
だから願いが叶わないくらいなら死んだほうがマシだという位の覚悟があってもいいと思います。死に物狂いは悪いことではない。但し、自分にできることでないと意味がありません。自分でコントロールできない問題で、実現しないなら死んだほうがマシだというのは、どう考えても何の意味もありません。周囲を巻き添えにするだけで、意味不明な分、呆れるしかありません。
感情の洪水に流され右往左往するのではなく、必要なスキルを身につけると同時に自分にできること、さらに自分にしかできないことに精を出して、人間のプロとしてかけがえのない人生に仕上げていくことを楽しみたいものです。働きがいのある活気ある仕事はそのプロセスにあります。
自分にできること、さらに自分にしかできないことに精を出すにはどうしたらいいのか。そこで、目的、目標から逆算して導きだした因果関係を丁寧に創り上げていき、決して目的が破綻するような要因を作らないことが肝心です。
物事は何か決定的なひとつの要因で決まるわけではなく、いくつかの要因で決まっています。結果には必ず原因があるわけですから問題を引き起こすような原因を先に取り除いておけばいいのです。ようするに危機管理の話ですが、もっとポジティブに先に先に打って出て、計画、目標よりもっと先に出て戦略にしてしまうのです。戦略も、目標も、計画も、目標管理、危機管理も中味は同じで、どのタイミングでやるかで呼び名が違うようなものです。最初から最後までやり続けたらいいことで、最初がしっかりしていないから、中味が変わってくるだけのことなのです。
因果関係のことは
次にお話しします。